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信任と自由の思索メモ

"自由"とは、なんだろう。

"自由"とは、「自分に関係する全てのことを、自分の意思でコントロールできる」ということではない。全てが自分の意志通りに進むことを目指して、何もかも自分で決めようとすると、むしろ、常に"時間に追われる"結果になり、"自分らしく"あることが難しくなる、という逆説を、私達は日常的に体験している。

一方で、自分に関するすべての意思決定から解放される、ということでもないだろう。今まで、私の意思決定を任せていた先のものが、いつの間にか、私の意思を超えて、私の価値観を無視し、少しずつ私の行動を「乗っ取って」いく、という現象が繰り返されてきたことを、私達は歴史から知っている。

むしろ、"自由"とは、私の意思決定の「信任先」との関係の中にある。この記事は、信任関係の中に存在する"自由"に関する思索メモである。


悪性脳腫瘍患者の療養上の決定

学生の時、研究室の先輩に、悪性脳腫瘍患者の療養上の決定に関するインタビュー調査をしている人がいた。

悪性脳腫瘍には、理解力や判断力が低下する、という症状がある。他のがんと比べても進行が速いため、本人の心の準備ができないうちに症状が進行し、本人の意向が把握できないまま、手術などの治療上の意思決定を行うことがしばしばあるという。現在も、家族が代理で意思決定することが多いらしい。

「インフォームド・コンセント」という言葉に代表されるように、患者本人が治療の意思決定に関わることが、患者の幸せにおいて重要だ、という意見が強まる中、実際に現場で看護師として働いていた彼女は、本人の意志を尊重することの重要性を分かってはいても、現実的にはなかなか難しい状況に不満を抱えて、その研究テーマを選んだのだと思う。

私もクローズドのインタビューデータの分析会に参加したのだが、分析の中で特に議論の種になったのは、自分で意思決定せず、医者や家族に決定を委ねているにも関わらず、満足度がとても高い患者さんのインタビューデータだった。

内容はすでに論文として公開されているが、結論の一部を要約すると、以下のようになった。

・"誰に意思決定を任せるか"を患者本人が選ぶことができ、実際に患者本人が信頼できる相手に意思決定を任せることができていた場合、患者の満足度は高い

・逆に、"誰に意思決定を任せるか"を患者本人が選択する余地がなかったと感じていた場合は、"他人に決められた"と感じ、満足度が低い

"信任の自由"

この研究のインタビューデータの分析会に参加した経験はとても印象深く、私は未だにこの研究のことを思い出して、考えてしまう。

私達は、しばしば無意識に、「自分のことは、他人に決めてもらうより、自分で選んだ方が幸せになれるはずだ」と考えている。

しかし、本当にそうなのだろうか。

あの研究について話す時、参加者の多くは、「自分で決めている人のほうが満足度が高いはずだ」という前提に囚われていて、「意思決定を他の人に任せているのに満足度が高い」というデータに困惑していた。「手術を受けるか、受けないか」という意思決定に先だって、『「手術を受けるか、受けないか」という意思決定を誰がするのか』を決める、という隠れた意思決定が存在していることに気づいたのは、分析がかなり先に進んでからだった。

同じことが臨床の現場でも起きているのではないか、と私は思った。臨床家が形式的な「インフォームド・コンセント」を重視しようとする態度は、「あなたのことはあなたが決めてください」というメッセージとなる。それは、本人の自由を尊重しているようでいて、結果的に、患者本人には"何に意思決定を委ねるか"という選択の自由があることを見落とし、自分以外の何かに意思決定を信任する、という選択肢を意思決定の場から除外してしまっているのではないか。

身体に任せっきり

普段、わたしたちはあまり意識していないが、私達は日常的に自分の意志で全部をコントロールしようとしないほうが上手くいく、という場面を経験している。

その最も代表的な例が、ふだんの会話である。「しゃべる」という営みは、私達の身体によってかなりの割合で「自動化」されている。

以下は、「どもる体」という書籍の中の著述である。日本人は「しぶん」と「ぺぎん」の「ん」の音を、文字は同じでも、次の言葉が言いやすいように発音を変えている、という例を出しながら、「しゃべる」という運動が、どれほど私達の身体の自動化に寄っているかを明らかにしている。

 「しゃべる」という運動そのものは、たとえば針に糸を通すようなきわめて意識的な運動とは異なり、自動的な調整にかなりの部分を負っている運動なのです。針の糸通しが「マニュアル制御」であるとすれば、しゃべることは「オートマ制御」だと言えます。(中略)私たちも、発声器官のポジションと出る音のパターンを、成長の過程で獲得しています。赤ん坊のころは単純な音しか発音できなくても、言葉に習熟してしまえば「『あ』の音を出すためにはえっと……」なんていちいち口の形を試行錯誤する必要はない。そんなことをしていたら、しゃべろうとするスピードにはとうてい追いつかないでしょう。
パターンが形成される理由は、一にも二にも「効率化」に尽きます。
どんな運動であれ、最初は意識的に制御する「マニュアル制御」です。けれども、それをずっと続けるには労力がかかる。一つ動くために筋肉の動き方や関節の曲がり具合をいちいち指定していたら、私たちの脳はパンクしてしまうでしょう。
そうはならないのは、随意運動であったとしても、パターンに頼って行うことによって、意識的にコントロールしなければならない量を減らしているから。運動を細部にわたってチェックする機能をオフにしていて、細かいことは体に任せている。あとは「よきにはからえ」です。

一言「おはようございます」と言うだけでも、(まるで初めての外国語をしゃべるように)舌の位置や喉の動かし方を自分の意志で決めてコントロールしないといけない状況を「自由だ」と感じる人は多く無いだろう。それよりも、話す内容などに集中したいと思うはずだ。発話や運動の細部を「身体に任せっきり」にできているからこそ、私達は自由に動けるし、自由に話せるのだと言える。

重要でない細部を、すべて意識的にコントロールしなければならない状態を、人間はむしろ「不自由」だと感じる。それは、私にとって重要な部分を意思決定し、コントロールする余裕と能力を削ぐからだ。

身体が持つ「自動化」機能は、主人が気が付かないうちに、いつの間にか家事をやってくれている無口な執事のようなものだ。発話に限らず、私達は、日常活動のほとんどを、身体に投げっぱなしにしている。何も言わなくても心臓は勝手に全身に血を送るし、肺は膨らんだり縮んだりして酸素と二酸化炭素を交換してくれている。食べ物の咀嚼や嚥下は極めて複雑な運動だが、私は大体の場合において、舌を噛まずに物を食べることができている。

ぎこちない信任関係

さて、上記で紹介した「どもる体」という本は、信任と自由というテーマについて考える上で、最も私がオススメしたい一冊である。そのため、もう少しこの本の話を続けてみる。

この本、吃音(どもり)という体験を、「自分の体が自分のコントロールを外れる」という観点から描いている。発声のオートマ制御が、自分の意図を外れて、思ったのと違う言葉がでてしまう。「たまご」が「たたたたたたたまご」になる。もしくは、いくら「たまご」と言おうとしても言葉がでてこない。

自分の体が思い通りに言葉を発してくれないので、自分の体を、なんとか、ねじ伏せてやろうとしたり、騙してみたり、おだててみたりする。例えば、リズムを付けてみたり、難しい単語を言うときは、言いやすい別の単語を前につけてみたりする。そうするとうまく言葉が出てくるときもある。逆に、なんとか意図通りの言葉を発しようとして力を込めると、身体はこわばって、うんともすんとも動かなくなったりする。

つまり、当たり前だと思われていた、「意識と身体の信任関係」が、吃音という体験の上では、とても危うい。主人の意図を汲んで動く、有能な執事のようだった身体が、今度は、こちらの話を聞かずに好き勝手に動き回る小学生の男子のようになってしまう。

実は、この本の登場人物の一人である「山田舜也さん」は私の友人である。彼は大学で吃音の当事者サークルをやっている。一度、学園祭で演劇をやるので手伝ってくれ、と誘われて、彼の主催する劇に私も役者として参加したのだ。

私は彼と共に吃音サークルの演劇に役者として参加して、今まで私は、発話活動のほとんどを、自分でコントロールしようとせず、身体に任せっきりにしていたのだな、と、少し反省させられた。私は発話においてそれほどの工夫をしておらず、自分の身体性に対するそれほどの知識もなかった。

「自然に」話せている、という表現は、話す、聞く、応答する、というシステムが、"意識"しなくても、淀みなく、流暢に流れている状態を指して使われる。東洋的な言葉で言えば、それは「りきみがない」という表現もできるだろう。

私にとって、今まで、発話のシステムとは、意識して細かい調整をしなくとも、自然に流れるように稼働するシステムであった。しかし、(幼少期の)山田さんにとって、発話のシステムは、意識して様々な箇所を調節し、工夫を重ねて、やっと全体として動作するものだったのだろうし、今でも部分的にはそうなのだと思う。

上記は「身体に任せる」例だったが、身体に限らず、人はひとりひとり、異なる関係性、異なるシステムの中に生きている。当然、その人が、自分以外のものに"任せきり"にできる領域と、自分で決めなければならない領域は異なることになる。

私自身、小中学校時代に、周りの人とのコミュニケーションが上手く行かず、周囲の人に馴染めずに困っていた時に、「そんな難しく考えずに、自然にやればいいんだよ」というようなアドバイスを受けて、憤慨したことがある。その頃の私は、どうも感情のままに行動するといじめられたりするらしい、というのを学び始めた頃だったので、「何も工夫せずに"身体に任せきり"でもなんとかなるヤツ」からの上から目線の発言だ、と受け取ったのである。

「自然さ」の逆説

「どもる体」の5章や6章のテーマにもなっているが、山田さんは、演技して話しているときは、ほとんど吃音がでない

『ばけたらふうせん』を読む山田さんは弁士のようなしゃべり方でしたが、一人一人の登場人物になりきったとしても、やはり何らかのパターンを使ってしゃべっていたでしょう。
素の状態でしゃべるとは、自分のしゃべりをゼロから自分で構築することを意味します。しゃべりに対する評価も、直接自分に返ってきます。これに対して「リズム」や「演技」では、自分でないものに一部明け渡されています。「すでにあるパターン」という他者を自分の中に招き入れ、それとともに運動する。自分の運動を構築するという仕事を、部分的に「パターン」にアウトソーシングしている

山田さんに限らず、歌う時や、リズムに乗せて話すと、吃音の当事者の多くはあまりどもらない。

ここには「演技する(=部分的に「パターン」にアウトソーシングする)方が自然に話せる」という逆説がある。

「りきみがない」状態を「自然な」状態と見なす東洋的な価値観は、人間が、(根本を辿れば)「人為的に修正しなくても、淀みなく流れていく、調整不要のシステム」と持って生まれてくる、という前提の上に成り立っている。しかし、上記で述べた通り、「あなたの生まれ持った身体性に委ねればいいよ」という主張は、時として暴力的だ。世の中には、「生まれ持った身体」が、全然自分の言うことを聞いてくれなくて、適切な信任関係を結ぶのが難しい人もいるからである。

逆に、「リズム」や「パターン」を外部から輸入し、自分の発話の一部を委ねることで、より「自然な」話し方ができる、という観点は面白い。

一方で、山田さんは、日常で自然に話すために作ったキャラに引っ張られてしまう体験もある。

「本当は演じたい人格みたいなものがあるのに、それを、ドックトレーナーが九◯度リードを回転させるように、反転し、制御された人格でコミュニケーションをとる。その『トレーナー』の顔ですとか意図ですとかがよくわからない」。

このような現象を、「どもる体」では「(工夫に)乗っ取られる」体験として記述している。言うことを聞かない自分の体に言うことを聞かせるための工夫だったはずが、今度はそれに自分の意思が乗っ取られてしまう。

実際、山田さんと演劇を作る中で聞いた、彼が困りごととして語ることの力点は、吃ることそのものというよりも、吃ってしまう自分の体と付き合うための様々な工夫を積み重ねてきた結果、逆に「その工夫に振り回されてしまうこと」に置かれていた。

"信任"と"自由"の関係

医療上の意思決定において、「自分でコントロールできる」ことは良いことであるが、同時に、自分以外の何かに"任せきり"にしても、自分の意に適した決定が為されると信じられることは、幸せなことだと思われる。

逆に、医師が"任せきり"にするには不安なので、自分で決める、という場合の自己決定は、たとえ自己決定であったとしても、幸せだとは言えないかもしれない。人間の認知資源は有限であり、コントロールすべきと期待されるものは、いつだってそれ以上の量がある。細かすぎるところまで自分で調べて自分で決めないといけない場合、人は、初めての外国語で意思疎通するかのようなぎこちなさを感じ、むしろ「自分のやりたいようにはできなかった」という感覚を抱くかもしれない。

だからといって、全てを、自分以外の何かに委ねることが良いとはいえない。委ねた先で不具合が起こることもある。山田さんが「どもる体」の中で表現するように、委ねた先に「乗っ取られる」こともある。

だから、私たちは、毎日、「私がコントロールするべき」と期待されるものの中から、何かを意識の中に留め、それ以外のことを自分以外の何かに委ねるしかない。

だから、"自由"とは、全部を自分でコントロールするということではなく、全部を何かに委ねられるということでもない。自分がそれをコントロールしたいと思った時に、それを自分の意志でコントロールできる権利があること、逆に、それを意識する余裕がない時に、(一時的にでも)安心して委ねられる先があるということ、そして、それらの"信任先"と自分との関係が、適切にデザインされているということ、という3点なのだと最近は考えている。※1

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※1 カウンセリングは、かつて、私が「無意識に任せっきり」にすることを選択したものを、今一度、意識に上げて、その中から、何を意識し、何を手放すのかを再考する場であり、かつ、今までずっと意識しすぎてうまくいかなかったものを、いったん手放して、身体に委ねてみる、ということを試してみる場でもある。それは、自分と無意識(or身体)の間の"信任関係"を、リデザインする、と言い換えることもできよう。

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