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シャニマスはアイドルの不易流行を止揚しようとしている気がする


元来「アイドル(偶像)」には純潔や神秘性が求められていたし、
「アニメ(二次元)」には不老不死であること、閉じた物語の中で不変の人格であることが価値とされていた。

特定の語尾や性質が定められていて、絶対にお兄ちゃんを好きな妹、現実と相反することで現実を忘れさせてくれる、あるいは現実よりいいものを感じさせてくれるなぐさめとしての機能と需要があった。

元祖アイドルマスターの「この子はこういう子」+「インタラクティブなEメールが届く」システムの頃。
2005年頃から「電車男」「ラブプラス」で潮目が変わりはじめる。

時は流れ、インターネットも普及して「オンライン、バーチャルのかかわり」の幅が拡大するにつれて、「アイドル」「二次元」というものとの向き合い方がよりリアルタイムでインタラクティブになり、そうしたものの人間性を認めることや、リアリティのある関わりとふれあいが求められるようになった。

これは「現実社会でつまはじきになった、なったと感じてる者へのなぐさめ」から、「バーチャルを織り込んで変容した社会との折り合い、対人関係の情緒的な部分での教科書」のような変質、進化といってもよい。

90年代のエヴァンゲリオンで人口に膾炙したもの
人との関わりを拒絶し、自意識と葛藤する主人公
無口で神秘的なヒロインと、饒舌で勝ち気なヒロイン
「||代わりはいるもの||」を受け入れざるをえない

20年代のエヴァンゲリオンで求められたこと
障壁に対しての挑戦
アニメーションの人格に対して成長や変化を喜ぶ
失敗に対して寛容に、鬱には休養、「あなたはここにいていい」「||あなたは何もしないで||」のバランス
「||綾波は綾波しかいない||」というアイデンティティの肯定
人との理解と調和、「認め合う」コミュニケーション

「物語の中で人物が成長する」というパッケージが、アップデートを繰り返すソーシャルゲームになっていったことで「人物は人物として居て、生きてるんだから成長するし物語もできる」という、より「人生」に近い、もしくはそれと等しい状態になる。
ソーシャルゲームとは「ゲームを通じて社会関係を構築する」のではなく、「ゲームを通じて向こうにある人生、社会関係と接触する」というソーシャルの意味合いになった。

過渡期に「クラナドは人生」と言われていたが、あれは「(感受性の乏しかった)自分の人生観に強い影響を及ぼすドラマだ」という賛辞や、「この作品に人生(情緒、ひとのこころ)を学んだ」という意味合いが含まれているが、
閉じた時間軸で第三者の人生を描いたものなので、分類すると「クラナドは物語」となる。
シャイニーカラーズは我々との世界と時間を隔てたところで、変化を続けながら物語を生み出し続けている。それと、現実における自分以外の他人の人生との違いは「世界と時間が同じところ」にいるだけである。
「シャニマスは人生」、「クラナドよりも人生に近い」ことが伝わっただろうか。

不易、いつまでも変化しない本質的なものを軸にしつつ、
流行、移り変わるものを取り入れて輝きを描き出していく。
美しい感受性、情緒の表現を残しつつ、人生という時の流れを取り入れて変化を続けていくこと、
物語と人生という相反する事柄を互いに否定しながらより高い次元で進めていく、この成長と問題解決を止揚(アウフヘーベン)というわけだが、
そういうわけで「シャニマスはアイドルの不易流行を止揚しようとしている」気がしないだろうか。

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