社会を構築する一部ではない私たち

以下の図は、2017年に文部科学省が発表した博士課程進学者の推計である。

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https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2017/07/24/1386653_05.pdf

ここからわかることは、日本において修士課程から(社会経験なく)博士課程に進学する学生は約9000人であるということだ。これは国内の24歳人口の0.7%ととても希少らしい。

博士課程は原則3年あるので、単純に毎年約9000人が博士課程に入学するとすれば約27000人のうら若き博士課程学生が国内に在籍しているということになる。

しかし、現実は中退や留年や留学等の様々な要因によって3年で博士の学位を取得して修了する者ばかりであると一概には言えない。

博士課程に進学すると、たとえ高校卒業から浪人や留年、休学をせずにストレートで進学をしてきても学位を取得することには28歳になる。

つまり、「28歳学生(社会人経験なし)」ということだ。

肩書だけを見れば、日本社会において生きにくいことこの上ないことを察せられるのではないだろうか。

日本社会は基本的にマジョリティに対して生きやすいように作られているので、平均から外れている者にとっては冷たい。身近な親戚から「ずーっと学校にいってて勉強が好きねぇ。」と皮肉たっぷりに言われたり、変り者扱いされるなんて話はよく聞く。さらには、学部生と比較をして金銭面の援助の少なさによって苦しめられる者も多い。でも、そんなことを言えば、「じゃあ、なんで博士課程に行ったの?研究が好きなんでしょ?好きなこと出来ていいよね~」と言われかねない、と思うと何も言えない。確かに、研究が好きでたまらない人や研究に希望を見出して進学した人は多い。しかし、進学後に初心と現状や進路の乖離に悩むこともある。そんな相談を誰にすればいいのか?博士課程に進学をしても、意外と身近に同世代の博士課程学生がいない。大半の同級生は就職先で昇進をしたり、結婚をして子供をもうけたり、人生のステップアップをしているとき、かたや20代後半学生で、しこしこと研究をし、論文を書く。それが認められれば報われるが、ゼミの教授やジャーナルの査読者に否定されることもある。私の肌感覚では、博士課程の学生は認められる機会よりも否定される機会が圧倒的に多いように感じる。それどころか、論文を書く途中で煮詰まってしまって、書ききれぬまま誰にも相談できなくなるケースも多い。


そもそも、社会人でいないという、いくばくかの自由の代償は、社会的に求められていないということでもある。

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https://earthlab.tech-earth.net/what-is-approval-desire/


上の図はアメリカの心理学者マズロー(1908-1970)が唱えた「欲求の5段階説」である。それぞれについて詳しく補足をすると、以下のようになる。

生理的欲求:「食べたい、寝たい」など生命維持のための本能的欲求
安全欲求:「安心して暮らしたい」危険に怯える状況を逃れたいという欲求
社会的欲求:「仲間が欲しい」という欲求
承認欲求:「誰かから認められたい」という欲求
自己実現欲求:「これこそ自分である」と言えるような生き方をしたいという欲求

日本に暮らしている我々は幸いなことに、生理的欲求と安全欲求に危機を覚えることは稀である。しかし、社会的欲求に関しては構築が極めて難しい。仲間のいるコミュニティが希薄なのだ。田舎や途上国をイメージすると、人は協力し合って生きていくことが前提なので生きているだけでコミュニティに属することが出来る。しかし、日本の都市部では生きているだけではコミュニティに属することは出来ないのだ。各々が各々の役割をもることでコミュニティの一部になることが出来る。成人であれば、「人とのつながりのある仕事」を通じてコミュニティを構築したり、家庭をもつことでコミュニティを生み出す。そうやって自分の居場所を確保している。むしろ、コミュニティに属していない人間は社会とのかかわりのない罪深い立場として印象付けられる。

よって、コミュニティに所属せず、社会を構築する一部でない博士課程進学者は基本的に肩身が狭いのだ。

しかし、論文が認められれば承認欲求も自己実現欲求も満たされる可能性も秘めている。闇の先に何が待っているのかは神のみぞ知る。

かつて、子供に「末は博士か大臣か」と将来の期待を込めて語られていた時代があったというが、現代は「安定こそが正義」の時代。自分で決めた道を歩めば後ろ指をさされる。資本を生み出していなければ非生産的であると考えられる。社会に属していないように見えればどこか問題があると疑われる。


この3年、私は博士課程に在籍して学内外の博士課程の学生と会ってきた。決して多い人数じゃなくて、せいぜい20人程度だ。会えば、嬉々として研究の話をするし、普通の会話もする。初対面でも、同窓会のように盛り上がる。それでも、ある日突然、連絡がとれなくなったり、研究に見切りをつけたと言われたり、という場面に何度も出会ってきた。


博士課程同士で出会って盛り上がるのは、普段話をして共感しあう人がいないからという理由もある。よく言われるのが「普段、あまり話せないから話せて楽しかった」ということ。やっぱり誰でも孤独は辛いし、他人に求められたい。博士課程の学生たちは社会を構築する一部ではない。他人に求められていない。誰も彼らの孤独に気が付かない。彼らが今、いなくなっても社会は困らない。世界は変わらない。


我々が研究して論文を書いて、それが吉と出るか凶と出るかもわからない。吉じゃなければ意味がないのか?そもそも、なんのための意味なのか?この世界や社会の意味すらわからない。多様性を大事だとか平等主義を唱える人がマジョリティ側の社会だ。マイノリティは居場所がない。このままでは、いつか日本の博士課程に進学する若者が絶滅してしまうかもしれない。






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