ある少女の志まで

9歳のころ、家族とキャンプへ行くのが好きだった。虫も動物も植物も愛おしかった。
だから、新聞やニュースで環境破壊の話題が出るたび純粋な心は悲しなって、将来は自然を守る仕事をしたいと漠然と思っていた。

12歳のころ、学校で英語の授業が始まった。それまでもなんとなく興味があった「世界」への扉が開かれた。海外へ行ってみたいという純粋な欲求と地球を守るための仕事をしたいという十代前半のエネルギッシュな情熱が心に燃えていた。

15歳のころ、初めて恋人が出来た。恋をして、世界も地球も自然もどうでもよくなる気持ちも知った。私の世界の軸が変わった。このまま時間が止まればいいと思ったし、成長なんてしたくなかった。

18歳のころ、恋も特別過ぎることではなくなった。勉強もバイトも恋も割と両立できる術を身に着けてきたし、溺れる恋は不健康で、長くは続かないことも知った。どこか現実的な思考に目覚めて情熱に燃えて突っ走っている人を冷めた目で見ていた。それでも、心の中の少女の夢は消えていなかった。

22歳のころ、大学院生だったけれど休学して海外で2年間森林保全の活動をした。安心安全の現実社会人レールから外れるわけだから、反対されることもあったものの、強力な後ろ盾組織の団員として生活できることになったから、賞賛された気持ちの方が強かった。インターン経験も修士論文もその国で仕上げた。その国の彼氏も出来て、将来海外でVISAがとりやすいようにと日本語教師の養成学校へ行って実質の資格を得たりもした。資格取得後、その彼とは宗教観の不一致で別れた。

26歳のころ、研究員として博士課程に進んだ。研究計画が評価され、3年間は手当てがもらえるということで進んだけれど、とりわけ研究がしたかったわけでもなかった。そんな中、コロナでフィールドワークは中断し研究は見事に頓挫。研究よりも、仲間内との組織づくりに夢中になっていたし、日本語学校で非常勤講師をしたりと忙しかった。もう20代後半だったので、結婚も意識していたころに日本人の彼氏も出来て、婚約した。

29歳のころ、結婚し、都内で就職が決まっていた。それまで、関西に住んでいたので旦那も転職をし同じタイミングで上京した。

30歳、私は都内の環境系の団体の国際部で働いていた。どんなときも、左手薬指の指輪が安心をくれる。
幸せに暮らしているし、幼いころの夢もかなって順風満帆。
私のことを追っている映画だったら、もうハッピーエンドなのかもしれない。でも、現実は夢かなった後も幸せな生活の後も、その先に道がある。

「夢」がわからなくなったとき、「夢」だった仕事がむなしくなったとき、私は何をすればいいのか、何を信じればいいのかわからなくなる。
これまでの人生でだってしばしば燃え尽き症候群には悩まされた。

そんな時、この詩を思い出していた。

どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出來る
道は僕のふみしだいて來た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる

(道程/高村光太郎 より)


道がわからないんじゃない、作るものだと言い聞かせても現実は難しい。
それでも、今は「守りたい日常」があることは私を強くさせている。
「守るべきものがない」からこそ身軽で自由だった20代を経て、「守るべきものがある」今は強さを手に入れたと感じる。

今年、私は31歳だ。
旦那とは将来に向けて、子供よりも家のことを話し合う機会が増えた。
仕事では、人生初めてビジネスクラスで単身出張をした。
表面的には相変わらず順風満帆。

その実、家庭では、自分が不甲斐ないなと思って自分を責めてしまうこともある。
仕事では人間関係に疲れたり、処遇にネガティブな疑問を感じたり日々戦いのような気がする。

大人なってみると、成長しているようで本質は子供のころから何にも変わった気がしない。それが、連続した人生を歩んでいる自分の何よりの証拠のような気もするし、本当に自分を丸ごと認めて愛せるのは自分しかいないことを知らしめる。

私の中の少女は、私が落ち込んでくよくよしていることを喜ばないだろう。彼女は常に志高く、純粋で、常に胸をときめかせている。そんなこと、私自身のことなんだから私がよくわかっている。過ぎ去った時間が、私をつまらない憂鬱な人間にさせても、それはある一面だけだ。過去からの長い歴史の一幕に過ぎないことを思い返さなければいけない。



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