フーテン世界平和

大学院生のころ、フーテンに近い生活をしていたことがある。

別に家がなかったわけじゃない。お金がなかったわけじゃない。

ただ、求められるがままにフラフラとしていた。

私は当時、研究調査やらで途上国に数年住んでいて帰国したばかりだった。

途上国の山村のフィールド調査をして疲れて、リュックサックに入れておいたチョコレートをかじる。すると、どこからともなく現地の子どもたち沢山集まってくる。興味深そうに大きな目で私を観察する。そこに嫌悪の感情はないように見える。1人が「外国人、お金をちょうだい」という。周りの子どもたちも一斉に「外国人、ちょうだい」とねだり始める。ちょっとした騒ぎになる。彼らの服装を見れば貧しいのは見てわかる。服は破れ、裸足だ。頭にはフケの目立つ子もいる。そして何より、集まると強烈に感じるムッとする体臭。たとえ、彼らが大人の指示によって外国人に金銭を集りに来ているとしても、貧しい故の行動であるのは間違いがないだろう。

私が研究調査を行っている目的は、世界の貧困削減の一助だった。そのための、生態系調査をしていた。直接的ではないけれども、彼らのことを思っていたつもりだった。しかし、見ず知らずの大量の子どもたちにお金をばら撒くことは出来なかった。それは、私が大金持ちではなかったことも理由ではあるし、何よりも彼らのお金の使い方を信用していなかったからだ。「お金はないよ」と伝えると、「外国人でしょ?」「隣人を愛してください!」と子供たちの態度は一変した。ちょっとした暴動だ。なぜ、私が責められなければならないのか?なぜ、周りにいる大人たちはギャラリーになるだけでとめないのか。

悔しかったが、彼らの悪者で終わりたくはなかった。リュックサックにしのばせておいた折り紙をだして、その場にしゃがんで子供たちが騒ぐ中ひたすら折った。カエル、飛行機、つる、カメラ・・・。お金の代わりに折り紙のプレゼントをあげようと思ったのだ。子供たちは折り紙に興味を持ってくれた。そして、我先に折り紙を手にしたいと騒いだ。数十人の子どもたちがいたので「並んでくださーい!」と言っても子供たちは並べない。完成した折り紙は近くの子どもに奪われ、その子供に他の子供達が覆いかぶさりまたたくまにケンカが起きた。折り紙はもうボロボロだ。結局、いくつか折った折り紙はその場で全て握りつぶされたり破れたりして壊れてしまった。それでも、子供たちのクレクレ攻撃は止まない。大人たちも集まってきたが、その場でマイノリティーの私の見方になる者はだれもいない。彼らは公平な関係ではなく私からの搾取を求めた。私は責められ、傷ついて逃げた。


日本に戻って、国際環境学に関する講義を履修した。世界の貧困削減や平等な社会のために何をすべきか?と卓上でディスカッションをした。ときには、アフリカの貧困にあえぐ子供たちの映像を見せられた。あたたかいコーヒーを飲みながら、電気もネット環境にも困らないきれいな教室で。

真面目な学生たちは真剣にディスカッションに取り組んでいた。私は、この話し合いの場にいるだけで現場とのギャップにクラクラした。そして、教授に評価されるのは結局、きれいごとでどうにか議論をまとめたグループだった。文献や映像を調べて、世界の悲惨な状況を訴えてクラウドファンディングをしてNPOに寄付すると言った学生もいた。そうやって平等について語り合う学生は裕福で学歴の高い人ばかりだった。

でも、だからといって先進国の裕福な学生が平和を語るなら途上国で生活をするべきだとは思うのもお角違いだ。かく言う自分だって、何も出来ちゃいない。勝手に自分の生まれ育った環境とは別の環境へ行って、傷ついて帰ってきただけだ。「他人や世界のために何かをすることは美徳だ」という思想こそ持っていたが、結局何をすればいいのかわからなかった。求められても神でもない私は盲目的に与え続けることはできなかった。

要は周りや環境に期待をしすぎていたのだ。私は他人や世界のために何かをしたいという善い行いをしようとしている。それならば、途上国にいけば「善い私」を笑顔で受け入れてくれる人がいるだろうとか、大学院で明確でわかりやすい世界平和の方法を学べるだろうとか。何故か?自分に自信がないからだ。自分がないから善にしがみついて他人や世界に受け入れられたかった。

結局、現実は経験や知識をつけるほどに自分は何者でもないことが浮き彫りになった。私は、みるみると自尊心と自己肯定感が下がっていき、生きていることに無気力になった。無気力だから、死にたいとも思わないけれど、生きたいとも思わない日々。ただ、時間を浪費していた。


平日の昼間から、ふらふらと古本屋で文庫本を買っては喫茶店でそれを読んでいた。女一人うつろな目をしてコーヒーをすする姿には構ってほしいようなオーラがあったのだろうか。喫茶店のマスターや客に声をかけられることが多々あった。

そんなとき、私はたいてい上品にかつ社交的返事をすることにしていた。そうすると、コーヒーやケーキをご馳走してくれたり、食事や物を奢ってくれたりしたからだ。そして、何よりも「他人に求められている私」が心地よかった。

求めてくれる人の家にもついていったし、求めてくれる人とモーテルにも行った。私は搾取されてはいなかった。与えられて、与えていた。


そんな生活は一時的なものだった。私に生きる意義を見出してくれたものだった。私の自尊心の上昇と共に、フラフラとした生活は終焉を迎えた。


私は、フーテン時代に出会った彼らに与えられるものを喜んだ。そして彼らは私が与えるものを笑顔で受け入れてくれた。

もしも、かつて出会った子供たちが私の折り紙を笑顔で受け止めてくれたなら、きっと私は傷つかなったのだろう。より多くを与えようとさえ思ったかもしれない。「他人に求められ、それを与えられる」という快感すら覚えたはずだ。

しかし、子供たちは私の自尊心を高めるためのツールではないことを認識していなかった。だから胸糞の悪い思いをして、逃げた。傷ついたのは、自分自身の歪んだ世界の見方が原因であるにも関わらず。あるいは、私は「私を求めてくれる存在」を期待しすぎていたことを理解しておくべきだったのだ。





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