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映画「こちらあみ子」の感想に対する感想

はじめに

「こちらあみ子」について、ネット上に色んな感想があがっててすごい!誰に感情移入して観るか、作品をどこまで俯瞰して観るか、それによって映画の捉え方が全然違う!当たり前だけど、観た人の数だけ違う「こちらあみ子」がある。以下、ほかの人の感想を読んで自分が感じたことを書いてみたい、「こんな見方をしている人もいますよ」的に。ほかの方の感想を否定するつもりは毛頭ないので、念のため。

観ていてキツくなる

「周囲の人たちの気持ちを考えるとキツくなる」という感想をけっこう見かける。これはたぶんあみ子以外の人に感情移入してるから?お父さんの気持ち、お母さんの気持ち、お兄ちゃんの気持ち、のり君の気持ち、、、冷静に考えると確かにシンドい。

でもわたしはあみ子に感情移入していたというか、あみ子とほぼほぼ同化していたので、観ていてキツいということはなかった。もちろん大人の気持ちもわかるので、大人サイドとあみ子サイドの間を行ったり来たり。

ただあみ子の一つ一つの動きに共感?共鳴?同調?する自分がいて、あみ子が何かに触れるたびに、自分も触れているような感じがしたので、大人サイドにいても、すぐさまあみ子サイドに引き戻された。

例えるなら、川の浅瀬を見つければ、あみ子のようにジャブジャブ入るだろう、そこに木の枝が落ちていれば、あみ子のように拾うだろう。木の枝を拾ったら、川の水をバシャバシャやって、飽きたらポイ〜ッと遠くに投げるだろう。あみ子の一つ一つの動きにひたすら共感。うん、うん、わかる、今は大人だからしないけど、子供の頃のわたしなら間違いなくそうする/そうしてた、みたいな。(超特報「あみ子、川であそぶ。」編を参照)

話が少しそれたかも…

これはわたしの勝手な解釈だけど、あみ子は、周囲の人たちに「なんで?」という不可解な気持ちはもっていても、いわゆる〈生きづらさ〉は感じていない気がする。むしろ誰よりものびのびと〈生〉を満喫している。

だからこの映画を観ていて、周囲の人たちが困っているのはわかるけど、あみ子が周囲の人を傷つけている/不快にさせているとか、そういったことよりも、次々起こる出来事に対して、あみ子がどう向き合うのかがひたすら気になった。

〈生〉と〈死〉を扱っている

〈生〉と〈死〉を扱った作品というような感想も見かけた。なるほど、映画というコンテンツを深掘りすると、そういう解釈もあるのか、深い。ただ、あみ子にとって〈死〉とは単純に自分がいる世界から〈いなくなること〉で、死んだらお墓を作る、成仏できないと幽霊になる、くらいの認識ではないかと。つまりあみ子にとっては、今いる世界、すなわち〈生〉がすべてではないかと。

だからお化けが登場するシーンも、純粋な子供ゆえの霊感とか、〈死〉の世界との交信とか、そういうものではなく、あのお化けたちはあみ子のイマジネーションによって〈生〉の世界に生み出された存在なんじゃないかと。お化けは普通は目に見えないから怖いけど、実際に目の前にあらわれたら、あみ子はあんなふうに和気藹々と一緒に遊ぶんだろうな。

色々と考えさせられる

映画の中での出来事をあえて言葉にすると、継母との関係、死産、非行、ADHA、学習障害、いじめ、暴行事件、、、この作品を俯瞰的に捉えれば、考えるべき問題が色々と見つかる。けれども、これらの言葉は、どれも〈あみ子の辞書〉にはない言葉じゃないかと。この映画で描きたいのはそういう社会問題ではないように私は思った。

映画の見方は人それぞれで、どう解釈しようと自由だけれど、こういう〈あみ子の辞書〉にないパワーワードを使ってしまうと、〈あみ子の世界〉が一気に色あせてしまう気がする。あくまでも一個人の感想だけど。

あみ子の無邪気さが周囲の世界を(好ましくない意味で)変えていく物語と捉えるのは大人の視点。確かにそう。でもあみ子の視点からだと、あみ子が周囲の人たちから静かに疎外されていく物語。習字教室に入れてもらえないところから始まり、最後は〈引っ越し〉という名目で家からも閉め出される。この疎外感が作品中に終始漂う寂しさの正体かも。

じゃあ、実際問題、あみ子はこれからどうなるんだよ、と言われると、どうなるんだろう、、、というか、この映画は、圧倒的な映像で観客を魅了して、そういうことを考える余地を与えない、むしろ色々と〈考えさせない作品〉のように私には思える。

おわりに

最後に、無粋ながらわたしもこの作品を大人の視点で語ってみたい。

個人的にはこれからはエクスクルージョンではなくインクルージョンだと思っている。大切なのは多様性の受容。みんな自分があみ子だったことを思い出して、あの浜辺のおじさんのように、ちょっと声をかけてあげられれば、きっと大丈夫なんじゃないかなと。あみ子にまったく認知されていなくても、めげずに話しかける坊主頭くんを見習いたい。あと保健室の先生もいい感じだ。

そして、こういう優しい映画が生まれて、たくさんの感想があふれる今の世の中は、まだまだ捨てたものじゃないと思った。この映画をきっかけに、映画に登場する〈さまざまな問題〉に関心をよせる人が増えたなら、それはとても喜ばしいことだ。

キャッチコピーの「無垢で、時に残酷な少女のまなざし」というのがイマイチわからない。残酷なまなざし?この映画にはあみ子はもちろん残酷な人は誰も登場しない。しいて言えば、目の前の〈現実〉が残酷かもしれない。

原作は、映画とは違うエンディングで、あみ子の行動の一つ一つについて言葉で説明しているようなので、ぜひ原作も読んでみたい。


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