第6回 あまりに澁澤的な


さて、澁澤である。
少女を語るといえば澁澤というほど、澁澤龍彦的少女論は文学からアートに至るまでの認識を席巻してきた。
確かに澁澤龍彦が少女という概念に果たしてきた役割は大きいと言わざるを得ない。実際私もアートの分野で少女性というものを意識したのは、彼の著作である『幻想の画廊から』の影響が大きい。
レオノール・フィニィ、バルテュス、ハンス・ベルメールなどなど、少女という概念を描いてきた数々の作品にこの著作の中で出会ったことで、自分の中の「少女とは何か」という命題に向き合うことができたのだと思う。そしてその後のアートに於ける自分の嗜好にも、多大な影響を与えたことは間違いない。

2014年に渋谷Bunkamuraギャラリーで「新世紀少女宣言ー少女のための解放区」という、少女をテーマにした展覧会を開催した。そのキュレーションを行う際に一番意識したのが、「澁澤的少女ではない少女観に基づくセレクション」ということであった。
澁澤的少女観というのは即ち、男性的な少女像に他ならない。庇護されるべき、決して逆らわない、白痴的な、小悪魔的な、か弱いなどなど、いかにもある特定の層に好まれそうなフェティッシュなイメージが思い浮かぶ。
そこで言及される少女とは、一言で言って弱者のことである。コントロール可能な下位の存在。安心して思い通りにできるお人形。(人形についてはまた章を新たにして考察してみたいと思っている、男性作家が創る人形と女性作家の創る人形との違いについても)
それは澁澤龍彦自身の、女性に対する未熟な感性にもつながるものである。もちろん彼の博覧強記やカリスマ的な魅力について語るべきものは大いにあると考えるし、彼が異端の創作者達を紹介したことの功績は大きい。未だに文学でもアートでも「澁澤的な」価値観が一定の力を持っていることは否定できないだろう。

しかし少女はもっと、そのような前時代的な価値観から自由になってもいいのではないか。
誰かに隷属しなければ生きられない脆弱な存在ではなく、年齢からも性別からも自由でいられるような強靭な存在であっても。
少女を少女の手に取り戻そう。
誰にも侵犯されないように。誰からもレッテルを貼られないように。
少女は少女のものだ。


登場した本:『幻想の画廊から』 澁澤龍彦著
→この本に登場するポール・デルヴォーの画はてっきり可愛げのある小さい小品だとばかり思っていたのだが、実物を観てあまりの大きさに驚愕した。少女どころの騒ぎではない。サイズの印象は大きい。
今回のBGM:「Gainsbourg Symphonique」 by Jane Birkin
→かつてセルジュ・ゲンズブールの「少女」だったジェーン・バーキンは、しなやかに年を経て現代の自立した少女になった。皺を刻んだその笑顔は紛れもなく少女のものだ。


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