第14回 キャットウーマン


少女と猫は相性が良い。
少女が猫に例えられることも、猫が少女として描かれることも多く、絵画や小説でもこの両者は親密な関係を保っている。
しなやかな肢体、挑発的な眼差し、するりと手の内をすり抜ける気儘さ。
それだけ?

レオノール・フィ二の画に猫は欠かせない。
のびのびと描かれた女性たちと共に、我が物顔で振る舞う猫たちの存在感は抜群だ。画家自身の分身である女性たちは、成熟した女というよりもっと少女のように毅然として、あるいは猫と戯れまたあるいは猫と同化してスフィンクスの姿で現れる。スフィンクスは、旅人が間違った答えを出すと食い殺してしまうという。彼女は私たちに問いかける。あなたは何が好きなの?あなたは何を信じているの? スフィンクスの答えは明白だ。「わたしは自分を信じている」と答えるに決まっている。
パリとローマを行き来して、多くのシュールレアリストたちと交流しながらも、どこにも属さず軽やかに身を翻しながら生きたレオノール・フィ二。その創作も、絵画から舞台芸術、衣装デザインや文学まで、手法や流行に縛られず、自らの美意識に忠実に行われた。
自由に生きるということは、実は非常に難しい。我々は常にいろんな制約の元に生活している。その無言の圧力を物ともせずに跳ね返し、貼られたレッテルを片端から剥がしていくのには、多大なエネルギーを必要とするので、なかなか軽やかに生きるというわけにはいかないというのが現実だ。
では猫はどうだろう。フィ二が生涯愛したこの美しい生き物は。
猫は気まぐれとよく言われるが、実はそうではなく猫自身の価値観に忠実なだけなのだ。人類との縁は長いとはいえ、猫は家畜ではない。飼いならされたのではなく、猫は野生のままで人間の傍に存在している。もとより犬と異なり猫は単独で生活する肉食獣である。ボスも主人も持たない。何者にも隷属しない。大きな瞳は我々とは違う世界を映し出していることを忘れてはいけない。

大学生だった頃よく立ち寄った画材や額縁を扱っているちょっとマニアックな店に、フィ二のエッチングが一枚飾ってあった。魔女の扮装をした少女が猫と一緒に箒に乗っているモチーフのもので、気に入って何度も何度も観に行ってはいたが、当時学生でお金がなかった私は購入を躊躇っていた。
ある日意を決して店を訪れたところ、その画が見当たらない。店の人に尋ねると、その前日に売れたという。それまで何年もの間売れなかったのに、なぜ買うと決意したその前の日に売れてしまうのかと、大変悔しかったことをよく覚えている。
それから数十年後、敬愛する先生のお宅にお邪魔したところ、なんとそのエッチングが飾ってあるではないか。僭越ながら先生とは趣味の傾向が近い同好の士であるので、なるほどこの地域でこの画を買うとしたら、先生か私かしかいなかったわけだと至極納得したのだった。学生の分際ではまだその画は相応しくなかったから、画は持ち主を選んだのだろう。
少女と猫に、またね、と声をかけた私は、その時とても気分が良かった。

少女という生き方はなかなかに不自由なものだ。こうしなければいけない、こうあるべきである、年齢は性別は云々。でも少女であることにそれは必須ではない。
少女に必要なのは柔軟性だ。身体だけでなく、精神の。
ひらりひらりと身をかわしながら、変化していくたくましさ。
そう、まるで猫のように。


登場した画家:「レオノール・フィ二」
→彼女の写真は沢山残っているが、そのどれもがあまりにも猫的なのには驚いてしまう。フィ二自身も優れた創作者だが、同時代の他の創作者たちは彼女に多大にインスパイアされたという。ミューズなどと奉られるのでなく、同じ創造という戦いを生き抜く、戦友のような存在だったのだと思いたい。
今回のBGM:『マホロバ』by 中山うり
→たくましく健気で、しなやかにしたたかに。野良猫の応援歌「路地裏のタンゴ」、良いですよ。

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