第17回 たとえ世界に薔薇がなくても


「少女革命ウテナ」という作品については、それこそいろいろな分野から語られてきたし、今更そこに何を付け足すのかと思われるかもしれない。深読みを誘う魅力的な設定、そこかしこに散りばめられた謎、壮大な音楽に複雑に入り組んだ人間関係。それまでのアニメーションとは一線を画する形而上学的な物語は、熱狂的なファンを生み出した。
そして1997年から放映されたTVアニメ「少女革命ウテナ」を、1999年に完全オリジナル新作として換骨奪胎した劇場映画「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」に於いては、戦闘少女という概念をある種パラダイムシフトさせた作品と言えよう。

一言で言ってこの映画で描かれる世界は、リンボウであり中陰である。天国でも地獄でもなく、生きているとも死んでいるとも言えない曖昧な世界。生者と死者のあわい。それを表す象徴的な描写が、どんなに高い場所にいても決して下を見下ろす視点が出てこないことである。上と下に挟まれた宙ぶらりんの世界で、生と死のモラトリウムを生きる登場人物たち。
その世界に様々な理由からやって来ている彼女彼等は、そこで人生の重大な決断を迫られる。そのためには封印した自らのトラウマに今一度向き合わなければならず、それができた者からある者はきちんと死ぬことを選択し、またある者は再び生きることを選ぶ。
主人公のウテナともう一人の主人公とも言えるアンシーが取り込まれているのは、強固な「白馬の王子様幻想」だ。少女はいつか迎えに来る白馬の王子様を待っているべきであり、翻って少女を迎えに来るのは白馬の王子様でなければならない。ウテナは自らが白馬の王子様になろうと試み、アンシーは薔薇の花嫁となって白馬の王子様を待つ。
この合わせ鏡のような幻想にがんじがらめに縛られているのは、彼女達だけだろうか。我々もどこかでこの白馬の王子様の亡霊に囚われていないだろうか。白馬の王子様とは単に理想の相手という意味だけを含むのではない。それは誰か他者に自らの人生の責任を背負わせるということであり、他者の描く幻想に自らを委ねるということでもある。そのどちらにもリアルな自分は存在しない。
王子様自身にとってもこれは呪いなのである。誰かの理想の存在でいなければならないという呪い。その呪縛を解くのは、過酷な現実に対峙できる覚悟を持った少女しかいない。

この映画の最後二人の少女は、怪物となった「白馬の王子様」を滅ぼし、このモラトリウムの世界の崩壊を見届けながら、荒涼たる現実世界へと走り去って行く。物語の語り手でもあった影絵少女たちが物言わぬ藁人形に変わっていたのは、最早語り手が必要ではなくなったためだろう。
物語は自分で創る。誰かの筋書き通りの設定に甘んじはしない。少女は少女であるが故に、そして少女であるために、より多くの抑圧と戦わなければならない。何のためでも誰のためでもない、自分のために。
ここに地球の平和や正義などというもののために戦うのではない、真の意味での「戦闘少女」の誕生がある。
たとえ世界が灰色の荒野であっても、そこに薔薇がなくても、少女は戦う。
それが生きるということなのではないか。


登場した映画:「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」
→これを観たきっかけは、ミッチーこと及川光博が声優として参加していたことだった。当時王子キャラを全面に打ち出していたミッチーが、王子様幻想を破壊する内容の作品に出演したのが、感慨深い。
今回のBGM:「はじめての特撮 BEST vol.1」by 特撮
→たとえ世界が絶望で覆われようとも、たとえ猫がパンであったとしても、「ケテルビー(Album Version)」が歌ってくれる。まだ、まだ一斤もあるのだと。わけわからない人は、まあ聴いてみてください。

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