第15回 メレンゲの誘惑


レモンパイはもはや絶滅危惧種なのではないかと最近思っている。
有名どころはもちろんのこと、街のカジュアルな洋菓子店でさえ、レモンパイの姿を見ることはまずなくなってしまった。
それよりもいまやレモンパイというケーキの種類自体、食べたことがないという人が多いのではないか。

レモンパイは昭和のケーキだ。
かつてはショートケーキやベイクドチーズケーキとともに、普通に近所の洋菓子店に並ぶ常連であった。そういえば昔はよく見たサヴァランというケーキも、最近はあまり見ない。サヴァランは洋酒にたっぷりと漬かった大人の味であったが、レモンパイは甘酸っぱい少女の味と言ってもいいだろう。もちろん甘酸っぱい=初恋の味、とか馬鹿なことは言うまい。初恋なんてたいがいが苦いに決まっている。
思うにレアチーズケーキという代物が出てきたあたりから、レモンパイはその勢力を失っていったのではないか。それまであったベイクドチーズケーキは、食感も一律で味もだいたいどこを食べても均一だが、レアチーズケーキは違う。ねっとりとした生のチーズの食感に加えて、ビスケットなどを砕いたクラスト生地の部分が存在しているため、より複雑な食べごたえとなっている。レアチーズケーキは、ムースの中にわずかにレモン汁を混ぜることにより、チーズの酸味を際立たせているが、その上ベリーソースをかけたりもするので、余計にその甘酸っぱさが強調されている。
一方レモンパイは、一番下のパイ生地の上にがっつりとレモンカードが重なり、一番上にはメレンゲがふわりとのせられているといった、食感と味の3層構造になっている。レモンカードとメレンゲでこちらの甘酸っぱさもかなりのものだ。この甘味と酸味の組み合わせという点で、 レモンパイはレアチーズケーキにその座を譲ったのではないかとにらんでいる。

今も昭和の味を保っているのが、浅草にある老舗洋菓子喫茶のアンヂェラスという店だ。昭和21年創業のこの店は、太宰治や川端康成に愛され池波正太郎や手塚治虫が通ったとして有名だが、店の名を冠したバタークリームの「アンヂェラス」というロールケーキが名物である。
それに比べると影が薄いが、アンヂェラスのレモンパイにも熱烈なファンはいるようで現在も店の定番だ。このレモンパイ、とにかくレモンカードが思い切り酸っぱい。その上にメレンゲは強烈に甘い。昨今の「品の良い甘さ」などという中途半端な味ではなく、ケーキを食べたぞという満足感を得られる存在感である。一番下のパイ生地以外に、レモンカードをはさむようにスポンジ生地が入っているので、分厚くて食べ応えもある。これぞ昭和の味。
実は私が一番好きだったレモンパイは、有楽町駅のすぐ近くにあった洋菓子店のものなのだが、そこのレモンパイにはスポンジは入っていなかったためもう少し薄めで、メレンゲが格子状になっていたのが特徴だった。でも味はアンヂェラスと同様、しっかり甘く酸っぱかった。食べ比べレポートなどに「甘過ぎず酸っぱ過ぎず」などとあると、はっきりせい!と突っ込んでしまうほど、ケーキは味のエッジが立っている方が好きだ。

なんでも少女に結びつければいいというわけではないが、それでも私にとって、一見甘くて実はしっかり酸味が効いた存在であるレモンパイは少女のイメージと重なるのであり、いまこそその復権を渇望するものである。


登場した店:「アンヂェラス」
→小さなブッシュ・ド・ノエルのようなケーキ「アンヂェラス」はホワイトとチョコレートの2種類。ちなみに初めてダッチコーヒー(水出しコーヒー)を出した店としても有名である。
今回のBGM:「SOPHIE ZELMANI」by Sophie Zelmani
→日本ではスウェディッシュ・ポップのブームは一瞬で過ぎ去ったようだが、真っ白なリネンのような彼女の歌声は今も心を打つ。

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