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死者にとっての平和

Peace to the dead(死者たちにとっての平和)


今日は朝から、ここ1年ほど購読しているコンステレーションのジャーナルの最新号を読んでいた。このThe Knowing Feildというコンステレーション専門のオンラインジャーナル、膨大な情報量だったりして全然使いこなせていないのが現状なのだけれど、購読を更新するタイミングのメールがリマインドになって、最新号をダウンロードした。

毎号必ずファミコンの生みの親・Bert Hellinger(以下へリンガーとする)によって書かれた記事が掲載されている。今回のタイトルは、

Peace to the dead
(死者たちにとっての平和)

目がすぐさま奪われる文字配列。朝の8時台。急ぐ用もないので読み始めることにした。決して長い記事ではないけれど、読みながら途中で「?」と思うところがあり、AI翻訳のDeepLに記事を投げ込む。翻訳を読みながら、そうだった、時にこの御方の英語は時々、英語ネイティブではない人特有の表現があるんだった、と思い出す。

人生とは、出生以前と死以後の間にあるものである。よって、生まれていない人もその生を全うした人も同等に大切に扱われる。誰かが死者とコンタクトを取りたいとする、例えば、死者に対して罪の意識を感じていて、その死者との間に何かを整えたいと思うかもしれないが、死者はそのような意味では理解しない。

Life is an interlude between what was before and what will be
afterwards. Therefore the unborn and the accomplished are equally taken care of. If someone wants to get in touch with them, for instance because he or she wants to put something in order with them because he or she feels guilty towards them, the dead do not understand it.

The Knowing Feild Issue 40 (2022), Peace to the dead by Bert Hellinger

死者はそのような意味では理解しない。the dead do not understand it.  という文章にしばらく目が留まる。

一体では死者はどのように理解するのだろうか。罪の意識を感じていて、遅かりし謝罪をしたいと思ってもそうは理解してくれないのなら、どのようにそれは受け止められるのだろうか。

死者側の理解という考え方に思いを馳せる

コンステレーション
死のテーマ

これだけでもわたしにとっては、ここでこれまで何度も触れている戦死した父方の祖父を思う。わたしにとって祖父の生きた証はまぎれもなくその息子である父だ。その父、つまり自分の父をしらない一人の男性が結婚して、わたしという娘を設け父親となった。そしてその父親としての役割は全うに果たされつつあることを、わたしなりに自分が出せる結果や生き方で証明したいという衝動があったことに、つい最近気づいたばかりだ。

そんな風にここでいう死者である祖父を想うことは、どんな風に死者に理解されるのだろうか。そもそも「理解」自体があるとも思えなくなってくる。

平和はどこから始まるのか。記憶が終わるところからだ。すべてのものの中にある最も深い切望は、この忘却へと入ることだ。

Where does peace begin? Where memory ends. The deepest longing in everything is the entering of this forgetting.

The Knowing Feild Issue 40 (2022), Peace to the dead by Bert Hellinger

生きる者にできることは、死者のことを忘れる去ること。
そうやって忘れ去られた死者こそが、平和にたどり着いた死者なのだ、とへリンガーは言う。

コンステレーションを見続けると、そのような動きに出くわすことは少なくない。安らいで横たわる死者の代理人も、横たわりながら全くくつろげていない死者の代理人のどちらもしたことがある。だから、へリンガーの書いていることは頭ではわかったつもりになる。

けれど、その死者が近しい人であるときに、そうも簡単に思えないんだな、ということを今更ながら体感している。

締めに、その記事の最後を引用します。

しばらくしたら、すべての死者には忘れられる権利が与えられなければならない。時には、その途中に邪魔が入ることもある。そんな時は、わたしたちが彼らに敬意を払い、彼らに感謝し、彼らを想って悲しむ。そうすることで初めて、彼らは私たちから解放され、わたしたちも彼らから解放されるのだ。
Sometimes there is still something in the way. They expect of us that we respect them, that we perhaps still thank them and still grieve for them. Only then are they free from us and we from them.

The Knowing Feild Issue 40 (2022), Peace to the dead by Bert Hellinger

追記 2023/3/29


実家の母の、普段どおりでない身体の一部のコンディションに加え、浮かない表情をここ数か月見続けている気がしていて、一人娘のわたしは常にそのことが頭の片隅にある時間を過ごし続けている。近頃は母の笑顔を見れただけで「ありがとう。これだけで十分。」なんて思えたりする。そのくらい自分の心配と不安の度合いが高いことを知る。そんな日々を過ごしつつ、先日、

母はもしかしたら今、彼女にとっての両親が亡くなった時のことを感じているのかもしれない。

そんな考えがやってきた。そう思っていたら、「調子が悪いからお昼ご飯を食べたくない」と、暗い顔の母が言い出す。そこで、わたしは母に、

調子悪いのって、気持ちの面で何か起きているんじゃないかなって思うんだけど、どうかな?

というと母は頷く。続けて、

もしかしたら、今になっておじいちゃんとおばあちゃんが亡くなったことについて感じたりしているんじゃないかな?って思ったの。

と伝えると、母は、

よくわかったね。今になって寂しいなあって思うんだよね。当時は毎日忙しくてそんなことを感じる余裕がなかった。なかったのも当時は幸いだったのかもしれないけれど。

と言って泣いていた。
予想が的中したことに、「母をどうにかしてあげなくちゃ」といつものでしゃばる子どものわたしが出てくる一方で、その悲しみを感じる権利が母にはある。そして、その時間が実は母にとっては健康的なことなのかもしれない、と思えた。

ここで紹介したへリンガーの記事を久しぶりに改めて読んで、何であれ母に起きていることを「子どもの位置」からそっと見ていよう、そんな風に思えた。

本記事記載の翻訳は持田よ直子によるものです。


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