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カスミ

今日きょう中に、出ていってくれ」
カスミは、そう 夫に言われた。

過ぎてから思い返せば、それがいやがらせだったのが分かる。
ただ長い間、夫と暮らす中で彼が言うことには服従しかなかった。
それで、その命令に対してどのようにすれば良いかをすぐに考えはじめていた。
時間がない。
持ち物を考えたが、大部分を家のすぐ先の粗大ごみの場所に持って行くのに急ぐ必要がある。

彼は、妻が困って何か言い出すだろうと思い、それを待っていたのかもしれない。

妻は、そんなことに思いがいくはずもない。
頼み事など聞いてくれたことがないのだから。
とにかく急がねばならないと必死だった。

いつでも言われたことはクリアした。
それはそうだ、そうしなければ鉄拳がとぶのだから。

離婚をして大分たってから、ずいぶんとあの男はむごい事を何年にも渡ってしていたなと気がついた。

当時は、日々を過ごすのに必死でいた。
逃げ出せないようになのか、持ち金を使い果たさせるためか、お金は最低限しか渡さない。

会社から電話で「白身の刺身がいいから」と、指示がくる。
夜の彼の、おかずの話だ。
ないお金の算段もあるが白身の刺身など、この町のどこに売ってるのか。

ある夜は、タクシーで帰ってきて鷹揚おうように「外のタクシーに払っておけ」と言う。
二万円を払った。
その分は返してもらわないと生きていけない。
恐る恐るお金をと言うと夫はにらみ付けながら、いまいましそうに紙幣をグチャグチャにまるめて床に投げつけた。

機嫌が悪い時は、難くせをつける。
その言いがかりがうまくいくとすぐに、カスミの腹をバンと蹴りあげる。
息ができずうずくまったその丸い背中を足で蹴り飛ばし、転がる妻に「ざまぁみろ」と言う。
きっと蹴った本人も、なんで怒ったのかなんて忘れているだろう。
理由などは蹴り飛ばされた、カスミにもわからない。

その頃は、世界が灰色だった。
色が、感じられなかった。

カスミはクリスチャンになっていたが、なんの救いもなかった。
宣教師の外人は「彼は子どもの時に不幸だったんですよ」と言った。
彼の子ども時代の不幸の為に、わたしが恐怖の中にいなくてはならないのかが、わたしには分からない。
そう、カスミは思った。

そんな人と結婚してと小バカにしたのは、役所の相談室の先生と呼ばれていた、年を取った女性だった。

どこからも助けは来なかった。
海の向こうのどこかの国の助けの為に献金をしても、カスミには生き方の導きが出来る、信仰の人も誰もいなかった。

助けはどこからも来ないというのが現実であった。
そんなものなのかもしれない。

離婚をして生活にも落ち着きが出てきてほっとしていた頃、カスミにクリスチャンの人が「ご主人とまた一緒になれるかもしれないじゃない」。
彼女がニコニコしながら優しく言った時に、カスミは恐怖で荷物をつかみ走って逃げたい気がした。
夫が殴るために追いかけてくる感じに襲われた。

離婚は幸せに暮らしている人にとっては、気の毒な事なのだろう。

今日のような曇りの日には、誰も覚えていないどこの誰も覚えていない思い出が、ひょっこりと顔を出す。




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