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落ち込みながら走る

自分が落ち込んでいるのか、世界が落ち込んでいるのかよく分からなくなってくる今日この頃。
ウイルスにまつわる連日のニュース、人の出入りがぱったりと無くなってしまった静かな部屋でPCを見つめ続けるだけの仕事、生き甲斐である観劇の公演中止、そこにきて交友関係でちょっと残念に思うことなども重なったりして、私は分かりやすく気が滅入っていた。

鬱々としたまま職場から帰宅し、淡々と夕飯を済ませ、気分転換にと部屋にあるピアノなどを奏でてみたが、全然気は晴れなかった。
その時、「そうだ、走ろう。」と思った。

今月に入ってから、ランニング(ウォーキングでも可)の習慣を復活させようと試みており、「週に1回は運動しよう」という努力目標を掲げている。今週末は雨だと聞いたし、平日の今のうちに走っておくのも良いかもしれない。ついでにこの陰鬱な気分も吹き飛ばせれば一石二鳥だ!そう考えて、800円のダサいジャージと真っ白な靴を履き、私は玄関を飛び出した。

走っても、走っても、気分は晴れなかった。

…当たり前だ。運動すれば悩みが吹き飛ぶなんて誰が言ったんだ。体育教師か。なんという単細胞な発想だ。仮に体育教師の悩みが晴れたとしても、そのメカニズムが同じ要領で私に適用されるはずがないだろう。彼らと私は同じ人間であって同じ人間ではないのだから。
そんなことを考えながら、恐ろしく遅いペースでのろのろと走った。

だがしかし、走り続けるうちに、私は別の気付きを得た。
走っていても陰鬱だということは、夕飯後そのままソファで三角座りを続けていても陰鬱だっただろう。その、自宅で微動だにしない状態の私と比べれば、今の私は適度な運動をちゃんと実行している。この、「問題は特に何も解決していないけれど、とりあえず身体に良いことはできている」という事実は、滅入る気分の中で割と心の支えになるような気がする。

例えば読書や映画鑑賞や楽器演奏なんかも、決して身体に悪いわけではないのだけれど、心がもやもやしている時は集中できないことも多い。何たって頭を使うから、注意力が散漫になると辛い。その点ランニングは、左右の足を交互に前に出して、車に轢かれないようにだけ気を付けておけば、ほぼ無心で取り組める。しかもランニングって、「身体に良いことしてますよ度」がかなり高いので、結構な満足感も得られる。
「気分転換に適度な運動を!」という呼びかけの神髄は、運動によって今ある悩みを解決することではなく、身体も心も全てがアウトの状態にならないための回避策なのかもしれない。

このような考えに至った私は今、明日来るやもしれぬ筋肉痛に打ち震えている。もし筋肉痛で足が完全にアウトになったら、上記の考察は撤回する。

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