怪物誰だ

昨日からうちに泊まりに来ている友人と映画『怪物』を観に行った。
本屋でよくこの映画の宣伝映像である「怪物だーれだ」というキャッチフレーズを耳にしていて、もともと気になっていた映画だ。上映終了間際ではあったが、兎にも角にも観に行けてよかった。

最近映画の面白さを感じていて、特に「映画館で観る映画」が好きかもしれないと思うようになった。
一番の理由は、現実から切り離されたようなあの独特の空間が好きだということ。映画館には着飾っていく必要はないし、好きな飲み物と食べ物をもっていける、ゆったりできる椅子は座り心地がよくてなんだか安心してしまう。
私はとりわけ、映画が始まる直前の暗くなる瞬間が大好きで、毎回鳥肌が立つ。身体ごと画面に吸い込まれてしまうんじゃないかってくらい大きくて迫力のある映像にとても感動するし、夢中になる。

今回は『怪物』について書きたいから、映画館の話はここら辺にしておこうと思う。



それにしても、『怪物』いい映画だった(=観てよかったと思える映画だった)。感動ではなく、ぞっとした。

まず、作品構成。
それは母、先生、子の三人の主要人物たちそれぞれの目線から一つの物語が描かれているものだ。この構成によって一番伝えたいメッセージは、「一つの出来事に対する考え方、感じ方はその人の立場や状況によって大きく異なる」ということだ。
ある人にとっては善意でも、相手にとっては悪意にしか感じられないことがある。ある人にとっては愛でも、相手にとっては恐怖に思えることもある。私たちは「相手の気持ちになって考えようね」と学校の先生に言われ続けてきた。それは誰かと生きていくうえで、とりわけ周りの大切な人を想う気持ちとして大事なことだと思う。でも、それがすごく難しい。
だって、真実は一つではないから。一つ物事は誰の目を通してみるかで、その見え方が全然違う。
この作品構成によって、この点が非常に明確に示されていて、やはり人間は主観でしかものを見られないのだなあと感じた。

「私はあなたじゃないけど、あなたの気持ちや立場を想像して、その上で行動や発言をするね。」
こういう考えは確かに必要だし、その人の優しさであると言えるだろう。でも、想像しているのは私であるから、その想像が間違っている可能性も大いにある。そしてその「優しさ」そのものが相手にとってはそう思えないかもしれない。
そして、そのことに私たちは気づくことができるだろうか、気づいたとして素直に謝ることができるだろうか。私は分からない。だって、自分の「優しさ」が真逆のものとして相手に受け止められていたら、自分の気持ちがその形を変えてしまいそうだから。

映画の中では、それに気づけた人が懸命に謝る姿が描かれていた。それがきれいだった。きれいで、苦しくて、苦しかった。

私は、この映画には一人の“怪物的存在”が出てきて、その人物によって登場人物たちの日常が狂っていくといったストーリーだと想像していた(この映画の宣伝映像を見すぎていたことも一因だろう)。
しかしながら、映画では怪物が誰であるかというところには焦点は当てられていなかった。「怪物だーれだ」というフレーズは子どもたちの遊びの中でのフレーズであったのだ。
そのゲームというのが、カードに生き物の絵を描いて裏返しに置く。それをせーので一枚引き、自分のおでこのところに持ってくる。向かい合わせの人は相手のカードに関するヒントを出しつつ、自分のカードが何であるか当てるといったゲームだ。
そのゲームでのカードを引く際の合言葉が、例のフレーズだ。

私は「一体誰が怪物なのだろうか」と、最初から怪物探しをしていたがまんまと広告に惑わされてしまったようだ。

実際に子供たちの遊びの中に「怪物」のカードはなかった、と思う。けれどあり得たとも思う。なぜならば、誰もが怪物になり得るから。どんなにきれいな景色の中にも、快晴の日にも、二人の幸せの間にも、怪物が存在する可能性はあると、私は思う。しかも、その怪物は悪意を持たない怪物かもしれない。ずっと見方だった人かもしれない。

私はその怪物を愛せるだろうか?


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