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なぜルチルはパパラチアを攻撃するのか?仏教的観点から見る「宝石の国」~ルチルとパパラチア~


1.はじめに
こんにちは、ピスケットです。今日は私が大好きな漫画「宝石の国」に登場するルチルとパパラチアの関係について、仏教的観点から考えるとどういうことが言えるのかを考えてみたいと思います。

「宝石の国」とは、月からやってくる謎の敵・月人に襲われる危機にさらされながらも、それぞれ個性豊かな宝石たちが苦悩を抱えながら生きる姿を描いたファンタジー作品であり、作品全体を通して仏教の考え方がモチーフになっていると言われています。この作品に登場する宝石たちは、人間と同じように感情や思考を持ちますが、人間と違って肉体は無機物であり、壊れやすく、再生可能です。また、人間と違って性別や老衰もありません。

2.ルチルに対する疑問
今回はこの作品の中でも特に印象的なキャラクターであるルチルとパパラチアの関係性、特に「ルチルはパパラチアに対してどういう感情を抱いているのか?」に注目して考えていきたいと思います。

「宝石の国」第9巻において、フォスは、パパラチアとイエローダイアモンドと共に、月人の宇宙船に乗って地球に帰ってきました。夜襲を行った理由は、金剛先生に秘密裏に接触し、祈ってもらうことによって、月人を成仏させ、月人と宝石の永遠に続く戦争を終わらせたかったからです。フォス、パパラチア、イエローの三人が地上に降り立った時、真っ先に彼らに攻撃を仕掛けたのは、他でもない、パパラチアの治療に自分の全てを捧げていたルチルでした。

イエローダイアモンドが「ルチル!やめろって。パパラチアが起きたんだ。それでいいだろ?!なあ!」と大声で叫び、制止しようとますが、ルチルは全く聞く耳を持っていません

「なぜルチルは、あんなに目覚めてほしかったはずパパラチアが、今こうして起きて活動しているのに、率先して彼を破壊しようとするのでしょうか?」
この疑問について、仏教的観点からはどのような考え方ができるのか、探っていきたいと思います。

3.パパラチアとルチルの関係~先輩と後輩から、患者と医者へ~
ルチルとパパラチアは、かつて月人との戦闘に備え一緒に見張りをし、戦うパートナーでした。ルチルは今でこそ穏やかな口調で喋り、落ち着いた所作で活動していますが、ルチルの過去を知る宝石たちによると、彼は元々かなり粗暴な口調であり、歩き方も足癖も悪かったようです。そんな彼が今ではこんなにも丸くなっているのですから、この変貌の理由は、ルチルとチームを組んだパパラチアの教育や指導の賜物だと予想できます。この間に、ルチルはパパラチアへの信頼を深めたのだと推測することができるかもしれません。

しかし、パパラチアは生まれつき体に複数の穴が空いており、この穴のせいで、これまでたびたび活動を停止してきたようです。その度にルチルがパパラチアになるべく近い鉱石を見つけてきては、手作業で丁寧に削り、パズルのようにぴたりとパパラチアの体に埋め込むことで、なんとか凌いできたようです。もっとも、ルチルの見解によれば、パパラチアの体のパズルは回を追うごとにどんどん難しくなってきているそうです。治療の回数を重ねるごとに、活動時間は減り、反対に眠りに落ちる時間は数百年単位で長くなってきているようでした。

それでもルチルは諦めません。普段、彼は医師として他の宝石たちの治療や修復を担当していますが、その合間の時間に、彼は眠り続けているかつてのチームメイトを目覚めさせるために、何度も何度もパパラチアの体の穴を別の宝石で埋めては失敗する、ということを繰り返しています。
そして、「宝石の国」第5巻において、パパラチアが約230年ぶりに目覚めて成長したフォスと会話をした際、ルチルは「すべて私が無能なせいです。」「あなたの不運を克服できなければ、私の医術は何の意味もありません。」とかなり強く言い切っています。

このような行動および発言から、ルチルはパパラチアを目覚めさせることに異常なまでに執着していることが分かるかと思います。
しかし、パパラチアの体のパズルがどんどん難しくなってきている影響もあってか、地上の拙い技術力では、ルチルがどんなに頑張って試行錯誤しても、三十万三十回の施術を経てせいぜい数分しか彼を目覚めさせることができませんでした。

ところが、科学的にも技術的にも進歩している月の世界では、パパラチアの意識を安定的に取り戻すことができます。そのため、仲間の宝石であるフォスは、月に行って月の世界の住人にパパラチアの治療を頼みます。すると、月人の高度な治療技術によってパパラチアはすぐに意識を取り戻し、何時間でも自由に活動することができるようになりました。

フォスの夜襲の際、月人の技術によってパパラチアが安定的に活動している光景を目の当たりにしたルチルは、怒っているかのうような、恨んでいるかのような、ものすごい凶悪な形相で、わき目もふらず、一直線にパパラチアを攻撃します。ルチルの武器の切っ先は、パパラチアの胴体であり、宝石できれいに埋まった穴でした。ルチルが狙っているのはパパラチアの塞がれた穴である、このことを漫画のコマをわざわざ1コマ使用しているのは、何か意図があるように感じました。ルチルはパパラチアの剣によって破壊されますが、その直前に「私の」と言い残してバラバラになります。まるで、「パパラチアは私のものだ。私が彼を治したかったのに」と言いたげな表情であるように私には見えましたが、ルチル本人は一体何を思っていたのでしょうか。

4.ルチルの行動に対する疑問
これらの状況を踏まえて、私は自分の疑問点を以下の2つに絞りました。

(1)第一に、なぜルチルはパパラチアの意識を取り戻すことに固執しているのでしょうか?(≒なぜルチルはパパラチアの治療を諦められないのでしょうか?)

(2)第二に、なぜルチルはあくまで「自分の手で」パパラチアを治療することに固執するのでしょうか?(≒なぜルチルは他人の治療によってパパラチアが意識を取り戻したことに対して、喜ぶどころか、激しい怒りや憎しみを感じているように見えるのでしょうか?)

以上の疑問点について、仏教的観点からするとどのようなことが言える可能性があるのか、以下に詳しく説明していきます。

4(1).第一の疑問について
そもそもの前提として、仏教では、人生は苦であり、苦の原因は執着であると説きます。執着とは、自分の欲望や思い込みに固執することで、それが現実と合わないときに苦しみを生じさせます。仏教では、執着を捨てて無我の境地に達することが解脱であり、悟りであるとされます。

先程示した状況に鑑みると、ルチルはパパラチアに対して強い執着を持っていることがうかがえます。ルチルの「あなたの不運を克服できなければ、私の医術は何の意味もありません。」という発言から、彼はパパラチアを仲間としてだけでなく、自分の存在意義や使命としても見ているかのように見えます。彼は自分が医師であることに誇りを持ち、他の宝石たちからも尊敬されていますが、それでもパパラチアを目覚めさせられないことに不満や焦りを感じているように思えます。その不安や焦りは、ルチルが「もし自分がパパラチアを目覚めさせられないのなら、自分の医学に関する知識と技術は何の意味もない」と非常に極端なことを強く思い込んでいることからもうかがえます。彼は自分の能力や努力が報われないことに苦しむ内に、本来の目的であるはずの「パパラチアと生きたいから治療する」ではなく、いつしか「自分の価値や正義を証明するため」に、躍起になってパパラチアを目覚めさせようとしているのでしょうか。

しかし、パパラチアの体はルチルの思い通りにはなりません。ルチルの努力も虚しく彼は何百年も眠ったままです。運よくパパラチアが目覚めたときでも、パパラチアは他の宝石仲間(フォス)に対して「俺はルチルに俺に対する治療を諦めて欲しい。」とこぼしています。パパラチアは、表面上、ルチルに感謝や親しみの情を示しますが、それだけではルチルの執着を満たすことができません。ルチルはパパラチアが常に目覚めて自分と一緒にいてほしいと願っていますが、地上の素朴な技術と設備を考慮すると、その願いは現実的ではないように思えます。

このように、ルチルはパパラチアに対する執着心から、不安、焦り、存在意義の否定などの苦しみを生み出しています。彼は自分の欲望や思い込みに固執しすぎており、現実と向き合うことができていません。彼は自分の無力さや限界を認めることができず、どうしても諦めることができません。仏教的観点から言えば、彼は無明であり、輪廻の中に縛られていることになります。

仏教では、苦しみから解放されるためには、「一切皆苦」「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の四法印を理解し、受け入れることが必要だとされています。「一切皆苦」とは、「人生は自分の思い通りにならない」という真理です。「諸行無常」とは、「すべてのものは移ろい変わるもの」という真理です。「諸法無我」とは、「すべては繋がっている」という真理です。「涅槃寂静」とは、「悟りの境地」を表した言葉です。

もしルチルがこれらの真理を理解し受け入れることができれば、彼は苦しみから解放されるかもしれません。彼は自分やパパラチアに対する執着を捨てて無我の境地に達することができるかもしれません。彼は現実をそのまま受け止めて変化に対応することができるかもしれません。彼はすべての存在と繋がっており、自分は孤立していないのだということを感じられるかもしれません。そして、もしルチルがそのような悟りを得られたなら、彼は安らぎの境地に辿り着くことができるかもしれません。もっとも、これらの真理を理解し受け入れることは大変苦しく容易ではないのですが。

4(2).第二の疑問について
なぜルチルはあくまで「自分の手で」パパラチアを治療することに固執するのでしょうか?
そして、なぜルチルは他人の治療によってパパラチアが意識を取り戻したことに対して、喜びではなく、激しい怒りと憎しみを感じているのでしょうか?
以上の疑問を仏教的観点から考察してみます。

仏教では、すべての存在は無常であり、変化や滅亡することを避けられないという考え方があります。この無常なものに執着することは苦しみの原因となり、そういった苦しみから解放され幸福になるためには、諸行の無常性を受け入れて、執着や欲望を捨て、悟りをひらくことが必要です。

しかし、宝石たちは無機物であり、欠けた破片を集めて接着すれば再び活動できるようになるという性質上、生き物として無常性を感じることが非常に難しく、執着や欲望を持ちやすくなっています。これは「だから我々は何事も諦めきることができない」と発言したルチルの言葉に現れていると思います。特に、ルチルは医師として他者の修復や再生を行うことで自己肯定感や存在意義を得ている可能性があるので、より一層「宝石は不変である」という妄執に憑りつかれやすく、自分の能力や技術に強く執着してしまうのではないでしょうか。本来、無常なものである宝石の肉体や意識を、ルチルはまるで永遠不変なものだと思い込んでおり、それらを自分の手でコントロールしようと試みているように見えます。

このように仮定すると、元気に活動するパパラチアを見てルチルが激高した理由は、他人の治療によってパパラチアが意識を取り戻したことに対して激しい怒りや嫉妬を感じ、その行為を非常に許せないものであると感じたからかもしれません。宝石が無機物であり再生可能であるという特徴と、ルチルがこれまで医師として多くの宝石を治してきた経験から、彼は「自分だけがパパラチアを目覚めさせることができる」という傲慢な思い込みを無意識のうちに持ってしまった可能性があります。ルチルはその傲慢な思い込みが崩れることを、無意識のうちに非常に恐れていたのではないでしょうか。

また、彼はパパラチアに対して深い愛情や友情を抱いており、それゆえに彼の幸せや安全を願っているはずです。しかし、その愛情や友情も今では執着や欲望に染まっており、パパラチアの幸せの先に、ルチル自身の利益や満足感を求めてしまっている可能性があります。パパラチアの攻撃によって破壊される前にルチルが呟いた「私の」という言葉は、他者がパパラチアに関わることで、自分の支配が弱まり、パパラチアが自分の所有物でなくなることに彼は恐怖を覚えた、と解釈できるかもしれません。「自分がパパラチアにとって特別な存在だ」という感覚が少しでも脅かされることを、ルチルはかなり嫌っているように思えます。

さらに、ルチルはとある目的のために、自分の能力や時間を惜しみなく使い、朝と晩、そして他の宝石の治療の合間、さらには冬眠の最中にもパパラチアのパズルの組み合わせを考え直しては試行錯誤し、身を粉にして働いていたことが「宝石の国」第5巻で明かされています。これは私の予想なのですが、その目的とは、「パパラチアが眠りから覚めて自分と一緒に生きてくれること」だったのではないでしょうか。
しかし、その幸福な目的のためにパパラチアを治療するという手段が、数百年もしくは数千年のうちに、執着心によって目的と手段がぐちゃぐちゃになってしまった可能性が考えられます。
つまり、パパラチアの治療に専念し、執着するあまり、いつしか目的と手段が入れ替わり、ルチルの中では「パパラチアを治療するという手段を使って、パパラチアと共に生きるという目的を達成する」のではなく、もはや「パパラチアを治す」ことだけが目的にすり替わっていたのかも知れません。「どのような手段を用いてでも、とにかくパパラチアが動いてくれればいい」のではなく、長すぎる時間の中で、ルチルの目的は「自分がパパラチアの治療を成功させて、自分の能力や努力を(パパラチアに)認めてもらいたい」に変容してしまったのではないでしょうか。

もっとも、ルチルは自分のやっかいな執着心が、自分自身やパパラチアにとって苦しみを生むものであることに気づいていません。実際、「宝石の国」第5巻において、パパラチアがフォスにこぼした「本当はルチルに俺のパズルを諦めて欲しい」という本心を、パパラチアはルチルには明かせていませんでしたし、また、「宝石の国」第9巻でルチルがパパラチアに攻撃を仕掛けたときも、獣のように怒り狂うルチルが持つ武器の切っ先が自分の腹部の宝石をかすめようとするのを、パパラチアは眉根を寄せて悲しそうに見ているように感じました。もちろん、ルチル自身も怒りや憎しみという感情に支配されているので、自分が作り出した執着心によって苦しんでいる存在であると言えると思います。

しかし、仏教では、自分や他者や物事を自分の思い通りにすることは不可能であり、それを試みることは無駄な努力であるとされます。実際、ルチルは地上ではどんな努力をしてもパパラチアを長く目覚めさせたままにしておくことはできませんでした。そして、月の世界でパパラチアは他人の手によって目覚めることができましたが、それはルチルの期待や願望(自分の手でパパラチアを目覚めさせること)とは全く異なるものでした。

このように、ルチルは宝石の体や意識が無常なものであるという事実を受け入れられないため、彼は自分の能力や技術、そして自分が親しみを感じているパパラチアへの執着や欲望から解放されることができずにいます。ルチルはパパラチアを治すことに非常に熱心で治療に対する欲求やプライドが強いため、執着のあまり、「自分の手でパパラチアを治療する」ことが少しでも妨げられることに対して、ものすごく激しい怒りを感じているように見えました。
これは、彼は自分以外の者がパパラチアを治すことを許せなかったからなのではないかと思います。
なぜなら、もし自分以外の者によってパパラチアを治されてしまうと、それは自分の存在意義や価値観を否定されることに繋がるからです。

その結果、彼は自分や他者や物事を正しく見ることができず、彼の念願だったはずの「パパラチアが不便なく活動できている状態」を見ても、喜ぶどころか怒りや憎しみを感じたのではないでしょうか。
そのような心理状況下では、パパラチアが本当はルチルにどうして欲しいと思っているかなど全く気にしないでしょうし、そこまで考えが及ばないのも頷けます。

これは、仏教において「我執」と呼ばれるものであり、自分や自分の所有物に対する過度な執着や固定観念のことをいいます。我執は無知や傲慢から生じるものであり、仏教では苦しみや迷いの根源であるとされます。
ルチルの心境を上記のように仮定すると、ルチルの苦しみの原因の一つはこの我執であり、我執から発生する苦しみから解放されるためには、ルチルは「空」という概念を理解する必要があると思います。

空とは、「すべての存在は相互依存的であり、固定的な本質や自性は持たない」という考え方です。空は無常性や苦しみから解放される智慧であり、「般若波羅蜜多」と呼ばれます。空を理解することで、「すべての存在は自分や他者や物事から切り離されたものではなく関係性や条件性から成り立つものだ」という現実を受け入れることができ、「我」や「私」や「自分」という区別や差別が消えて、「一切衆生」という共通性や平等性が見えてきます。

ルチルは、「諸行無常」も「空」も理解できていないように、私には感じられます。彼は自分やパパラチアなどの宝石は不変であり、自分たちに固定的な本質や自性があると思っているかのようです。つまり、彼は自分やパパラチアを他の治療者から遠ざけ、また、彼は自分やパパラチアを変化や消滅から守ろうとしているように思えます。
しかし、これらはすべて無駄な努力であり、逆効果です。なぜなら、万物は生生流転し常に変わり続け、変わらないものなどこの世にはないためです。何人もその自然の摂理にあらがう事はできないのです。

ルチルが本当に幸せになりたいと思うならば、彼は自分やパパラチアに対する執着や固定観念を捨て、空を理解しようと努める必要があるのではないでしょうか。彼は自分よりも高度な技術を有する他の治療者から学ぶ姿勢や、彼らに対して感謝の心を持つ必要があるように思えます。彼は独りよがりな自分の満足や幸福だけを追求するのではなく、パパラチアを含めたすべての存在が幸せになることを願う必要があるのではないでしょうか。そうすることによって、ようやく彼は「執着」という自ら作り出した苦しみの中から逃れることができると思います。

また、ルチルは自分自身や他者への執着や欲望から離れて中道(過度な欲望も過度な禁欲も避ける道)を歩むことでも、苦しみから解放される可能性があります。
しかし、「宝石の国」ではそうした中道へ向かうキャラクターはほとんど登場しません。むしろ、「宝石の国」では執着や欲望がキャラクターたちの成長や変化の原動力となっているように感じます。
その意味では、「宝石の国」に出て来る登場人物たちは非常に「人間的」に描かれていると言えるのではないでしょうか。(「宝石の国」において、宝石たちは人間と全く同一の生命体というわけではないにもかかわらず。)

5.まとめ
上記をまとめると、
●まず前提として、仏教の考え方の下においては、万物は無常であり、常住不変の自己や魂は存在しないという考え方がある。この世界は因果律に支配されており、すべての現象は過去の行為や心理的な要因によって生じている。

●ルチルは自分が医師であるという自己観や役割感を強く持っており、それが彼の行動や思考の基盤となっているように思える。彼は自分が医師であることで他者から認められたり必要とされたりすることで、幸福感・満足感・達成感を得ている可能性がある。

●パパラチアはルチルにとって特別な存在である。当初はただ「治療行為(手段)によってパパラチアが活動をしてくれる(目的)」と思っていたかも知れないが、だんだんと不安と焦りが大きくなり、長い年月の末、いつしか目的と手段がぐちゃくちゃになった。もはやパパラチアが動くことよりも「私がパパラチアを治す」という治療行為が目的になってしまい、ルチルはパパラチアを目覚めさせることで自分の医師としての能力や存在価値を証明したいと無意識下で思っている可能性がある。

●ルチルは自分だけがパパラチアを治せるという傲慢な考えを持っており、それが彼の執着心や欲望の原因になっているように思われる。

●しかし、月人の治療技術によってパパラチアが意識を取り戻したことで、ルチルは自分の医師としての能力や損在価値が否定されたと感じた可能性がある。

●ルチルは自分が医師であることの存在価値やパパラチアを目覚めさせるという治療行為に固執しすぎたことが、結果的に、自分自身や他者から苦しみを生み出してしまったことに気づいていない。(治療に執着しすぎて、「パパラチアがルチルに本当はどうして欲しいと思っているか」など考えも及んでいない可能性がある。)

●仏教では、このような自己観や役割感や執着心や欲望は無明(無知)や煩悩(貪・嗔・癡)と呼ばれる心理的な障害で、これらは真実や現実から目をそらす原因となりうる。真実や現実を見つめることで、無明や煩悩を除去し、苦しみから解放されることができる。

●ルチルが真実や現実を見つめるためには、自分が医師であることや、パパラチアを目覚めさせるという執着心から距離をとる必要がある。

●彼は自分(と自分の中の理想のパパラチア)以外の存在や事象に対する関心や共感を広く持ち、それらから素直に学ぶ姿勢や感謝の念を持つ必要がある。そのために、彼は自分の幸福を望むだけではなく、他者も幸せになれるように願う必要があると思う。

以上が、私が「宝石の国」~ルチルとパパラチア~について仏教的観点から考えた内容です。この作品は仏教的観点だけでなく多様な観点から読み解くことができる魅力的な作品だと思います。また、例え同じシーンを見ても、読み手によって受け取り方が異なるため、私が考えた以外の考え・解釈も非常にたくさんあると思います。
皆さんもぜひ自分自身でこの作品を読み、宝石たちが抱える問題や苦しみについて、自分なりの考えや解釈をコメント欄に書いてみてください。
それでは、今日はこの辺で失礼します。
ご視聴、ありがとうございました。

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