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風船の旅

伝えたいことは頭の中に〜旅するエッセイ〜

 岡山県井原市とゆうまちの名前を知ったのはわたしが小学校3年生の時だった。当時通っていた広島県世羅郡世羅町立大見小学校は木造校舎で、老朽化も進み、建て替えが行われた。落成式には、「学校が新しくなりました」と短冊に書き住所と氏名も記し(今では個人情報漏洩になるのでこんなことはもうしてないのかな)風船に結んで空高く飛ばした。

 飛ばした風船は気流に乗り山を超え谷を超え、井原市西江原の山の中に落ちた。およそ50キロ以上の距離を飛んだことになる。

畑仕事をしようと山道を歩いていた西岡貴志男さん(当時60代)がそれを拾い、返事のお手紙を下さった。貴志男さんは早くに妻を亡くされ、拾った風船の飛ばし主だったわたしのことを生きがいのように思ってくださり、それ以来、およそ20年間、誕生日には花やチューリップの球根、テディベアのついたネックレス、旅先からはキーホルダーなど、送ってくださった。顔写真も交換したりして、いつか、会いましょうと手紙に綴っていた。

 文通から15年位が経過した頃、新聞の取材を受けませんか、こんなに長く、風船のご縁で文通が続いていることを記事にしたい、とゆう話があった。当時わたしは東京で暮らしており、なかなかタイミングよくお話を受けることができず、叶わなかった。貴志男さんにしてみれば、喜ばしきこと、きっと取材を受けたかったと思う。またの機会に、と話したのを覚えている。

 そのうち、東京で忙しくしているだろうからと気を使ってくださり、手紙のやりとりも、年賀状が中心になった。ある年、「わたしも年を取りました。文字を書くのに一苦労です。」とゆう年賀状が届いた。それでもお元気に暮らしておられた。いつか会おう、と思いながら、わたしは変わらず東京で暮らしていた。

 その年賀状が届いた年の2月、わたしの父が急逝した。父の49日の法要で帰省していた日、見知らぬお二人がわたしを訪ねてこられた。それは貴志男さんの長男ご夫妻だった。「実は、おじいさん(貴志男さん)が、肺炎で他界しました。あなたにそれを伝えたくて、あなたのお手紙の住所を頼りに井原からここへ来ました。」と。父の49日と、貴志男さんの訃報を聞いた日が重なるなんてと、とても驚いた。父の法要がなかったら、わたしは長男ご夫妻にも会えなかった。巡り合わせとは、本当に不思議なものだ。予期なんてできないし、思ってもないことが起きたりする。貴志男さんと、いつか会いましょう、とゆう約束は果たせなかったけど、わたしは今、週にニ度、ご縁あって、井原市にあるカフェで働いている。貴志男さんが風船を拾ったであろう山を左手に見ながら。ひとつの別れがあり、ひとつの出会いがある。人生って、思ってる以上に複雑で、考える以上にシンプルなのかも知れない。

(ありみつりさ)


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