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45歳の休日 ~腎結石になると思い出す~

夏になり、脱水状態が長く続くと背中がじわーっと重く痛くなる。

今朝から左腎臓下部がずーんずーんという痛みを伴いながら、一日を過ごすことになる。

そうこれは間違いなく腎結石。

この鈍痛は紛れもなく、あの陣痛よりも痛いと言われる腎結石による痛みです。

かれこれ25年位この症状と慣れ親しんでいることから、この位の痛みではびくともしない。だけれども、汗はやはりかいてしまう。夏だからもあるけれど、ちょっとねっとりとした脂汗に近い汗を感じながら、過ごすことになる。

やはり、夏になることが多いのだけれども、それでも冬になったこともある。20年弱前の頃、当時、私は選挙の投票所で選挙事務に従事していたのであるが、その日も朝から鈍痛に襲われていた。

でももう慣れたもの。決して身体が悪いわけではなく、体質の問題だからと、坐薬をそっと臀部に仕込む。そうすると約6時間は痛みもなく頑張ることができる。朝6時から深夜まで3本の坐薬で乗り切ったことは懐かしい。

さて、今日の思い出と言うのは、そんな坐薬ネタではない。

生まれて初めてこの鈍痛を感じた時の話。

当時、私は大学四回生。

その日はテニスチームの大会で、僕はチームの主将。主将といったって、男子Cチームだから、テニスをバリバリやってますというようなハードなチームではなく、ほとんどオリンピック精神だけで試合に出場しようという後輩達のお守役のようなもの。

当時は京都市内の堀川通と今出川通の辺りに住んでいたため、ラケットを背負って、地下鉄今出川駅から乗車して、竹田駅まで行き、そこから近鉄線で向島駅まで向かう予定だった。

地下鉄に乗ってすぐに四条駅辺りから、大量に汗が噴き出てくる。意識も朦朧としてくる。なんだこれは。背中も重苦しい感じ。まだ小学生低学年の頃に、自家中毒でおしっこが出ない病気になったことがあって、その時の嫌な感じを思い出すような不具合ぶりだった。

自分の顔は見えないけれども、顔面は蒼白だろう、血の気が引くというのはまさにこういうことかと思いながらも、だんだんとまわりが見えなくなる。そして、異変に気付いた男性だったか、女性だったか、「大丈夫か?」と声を掛けてくださる。「ダメです。」とだけ言うて、地下鉄車内の床に寝そべる。おそらく何人かで次の九条駅のホームへ降ろしてくださり、駅員さんを呼んでくださる。

駅員さんはお父さん位の方だった記憶があって、気が遠くなりそうになる僕を脇にかかえて駅員室まで運んでくださる。

とりあえずベンチに寝転がせてもらい、「背中が痛いんです。」と泣く。
駅員さんはさすったり、腰をもんだりしてくれて「テニスをやってるんや。テニス頑張り過ぎと違うかな。」とか優しく声をかけてくださる。
この現状をとにかく、チームのみんなには伝えないといけないと思い、チームメンバーの携帯にかけるが電話は留守電。とにかく、身体がやばいから後は任せたとだけ留守電に言い残した記憶がある。(あとで聞くと、チームメンバーは何があったのか大騒ぎになりながら、精神的支柱を失ったチームCは惨敗したと聞く。)
少し眠ったのだろうか、気分も落ち着き、駅員さんは実家へ連絡してあげようかと言うてくれたが、「大丈夫です。とりあえず部屋まで帰ります。」とお礼を言ってアパートまで戻る。

その晩、信じられないほどの激痛が身体を襲い、管理人さんに泣きつく。病院や実家に連絡をしてもらったんでしょう。気づいたときには病院のベッドの上で寝てる。しばらくして両親も到着。まあ、腎結石とわかったから一安心。

というような出来事があった。

なかなか20歳の若者にはなかなか刺激的だったが、今思うと、地下鉄で心配してくださり、途上の駅で降ろしてくださった方や地下鉄の駅員さんってものすごく優しいなあと思うのです。そして、今の時代だと同じように対応してくれたのだろうか。責任問題とか、なんだかんだ難しい世の中だと、腰をさすってくれたりなどまずしてくれないように思う。

今まさに鈍痛を感じながら、そして、いつも鈍痛を感じるたびに当時優しくしてくださった方へと当時の優しい社会を思い出すのである。

#45歳 #腎結石 #京都市地下鉄 #テニス

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