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ターシャのこと(1)

ターシャ、というのは私の母のことである。ちなみに父のことはセバスチャン、兄はミーシャと呼んでいる。
ターシャは明るくて、話好きで、世話焼きで、マイペースでちょっと「あたしんち」のおかあさんにも似ていた。
縫い物が得意で私の子供の頃の服はほぼターシャのお手製だった。縫い物以外は割と大雑把で世間知らずだったが、几帳面でいささか気難しい所のある父、セバスチャンとは仲が良く、あの2人だからこそ夫婦だったのではないかと思う。
ターシャはセバスチャンに頼りっぱなしだったし、セバスチャンもターシャの明るさに救われて夫婦になったのだと晩年私にこっそり話してくれた。
学校から帰るとターシャはふっくらとした背中を丸めてミシンを走らせ、何かしら縫っていたし、インスタ映えはしなかっただろうが、ターシャの作るご飯はいつも美味しかった。誰かのために何かをすることが生活の中心だったターシャとセバスチャン。
自分達の本当にやりたいことを探す私達の世代と違って、誰かのためになることが喜び、とすることが長かった世代である。
そんな中、ターシャは縫い物に生きがいを見つけ、大層楽しそうに次々と誰かの服を縫っていた。ご近所の友人との旅行やたまにこそっと買ってくる甘い物(往々にして餡蜜だったりあんぱんだったりでほぼあんこものの和菓子。)
も癒しの時間だったようだ。

そんなターシャが先月旅立った。
7年前に大好きなセバスチャンが旅立ってからの淋しさと、その後に起きた脳梗塞が原因で、ターシャの日常は様変わりした。胃を患ってからはふっくらとした背中は骨が浮き出るようになり、あたしんちのおかあさんの半分くらいの見た目になった。電子レンジで半生の煮豆を作ったり、不思議な線を布に縫うようになり、言葉のキャッチボールはおぼつかなく、投げた球と違う球が思いもよらないところから帰ってくる感じになった。化粧を忘れ、おしゃれも忘れ、身の回りのことはかまえなくなっていった。

3年前位からターシャはご飯を作ることも1人で風呂に入ることもできなくなっていた。
兄や私のことはわかるようだが、ゆるゆるといろんなことを忘れ、辻褄の合わない行動をするようになった。
ターシャがデイサービスを利用するようになった頃、兄に頼まれて、年末年始実家に泊まり、2人で過ごしたことがあった。この頃、兄夫婦が仕事の間日中独居となっていて、出勤前と帰宅後、兄は母とのやりとりに疲労困憊していた。年末年始くらいはゆっくりできるよう、私が身の回りのことを引き受けたのだ。
私が作った夕飯を一緒に食べたが、食べている最中も話が止まらず、何度も箸を置き、途中促さないと食べることを忘れた。一緒に紅白を見ては見たが、以前なら歌い手の衣装にあれこれコメントするターシャが、話すのは全く関係のない出来事で、やはりつじつまの合わないものだった。
それでもターシャは怒ったり、不機嫌だったりすることはなく、些かぼんやりとはしているものの、相変わらず取り留めないことでも話し続けた。
快活に笑うことがないのが残念だったが、セバスチャンのいないことを寂しがる言葉はなく、ぼんやりとした世界にいながら淋しさも忘れているのではないかと思った。
この時、私は初めて痩せ細ったターシャをシャワー浴した。まだゆっくりと誘導すれば歩けていたが、されるがままのターシャへの介助は、仕事のそれと違い、あとから切なさが込み上げた。ありがとね。ありがとね。
この時感謝の言葉を私にかけてくれたがターシャは何を思っていただろう。まだ意思疎通が何とかできていたこの数日は、親子でゆっくりした時間がもてた貴重な時となった。
 
姪が出産し、初曽孫に会えるのを楽しみに面会に行った帰りのことだった。
今会いに行った病院の駐車場で転倒し、ターシャはそのままその病院に大腿骨骨折で入院し手術することになった。長期間の入院で、ターシャの認知機能の衰えは加速した。手術後リハビリをする頃にはターシャを家で見ることは困難になっていた。介護度が進んだターシャは数ヶ月後、特養に入ることができた。

コロナ禍になるまで、私は実家方面の仕事帰りに何回か面会に行った。
私の名前はすぐ出てこなかったけれど、娘なんです、と隣の方に私を紹介してくれた。テーブルには昔作ったターシャのパッチワークの作品の写真が貼ってあった。ターシャはそれに反応することなく、空に手をかかげて、あの辺にね、あれがいてね、と繋がらない話をした。眼はどこかを見ていたけど、よく食べ、よく喋っていたように思う。
最後にターシャと話したのは特養に2年前の6月に面会に行った日だった。
面会室に現れたターシャは表情がなく、リクライニングの車椅子でぐったりしていた。今朝から反応が鈍くてお食事も食べないし、様子がこんななんです、と施設の職員さんに言われ、脱水なんじゃない?とピンときたものの、念のため検査してもらおうと受診に付き添うことになった。検査結果はやはり脱水だったので点滴してもらい、数日入院することになった。
点滴がはじまるとターシャは、あら、きてたの?と話し、私は、脱水だよー、ちゃんとお水飲んでね。少し入院したら帰れるって。と言って帰った。
この後、退院して施設に戻ったが、面会時間の都合がつかないまま、コロナ禍になり、面会できずに2年がすぎた。
私が次にターシャにタブレット越しにあったのは去年の12月、施設でターシャが意識がなくて病院に運ばれた連絡をもらって、ICUに駆けつけた時だった。

その日、排泄介助に回った職員さんがいつも話しかけると声が返ってくるのに反応しないターシャに気づいて連絡をくれたそうだ。ターシャは脳出血を起こしていた。CTでみたターシャの脳は出血で脳幹がおされていて、神経を圧迫していた。何とか出血は薬の投与で引けたものの、一度破壊された脳細胞は戻らない。ターシャは一命を取り留めたが、もう喋ることはできず、意思疎通は、はかれず、寝たきりになるという。
ターシャは元来痛がりで怖がりで、前回の入院時には自分で延命処置を拒否する文面を病院に残していた。
兄と私は話し合って、胃瘻はきっと嫌がっただろうからしないことにした。
もう何も言えないターシャのことを兄と私とで決めるのはつらかったが、痛いのや苦しいのはなるべくしないことにするのは2人とも一致した気持ちだった。
タブレット越しに面会ができると聞いて、看護師さんお願いして、ターシャに話しかけた。おかあさん、私だよ、○○だよー。しんどいね。頑張ってるね。孫たちみんな仕事きまったよ。お薬でつらいの少しとってもらうからね。またくるからね。
話しかけると左の口角がうっすら開いた。聞こえてるね。うんうん。○○だよー。
2年ぶりのターシャはすっかりおばあさんぽくなってはいたけど、面影があった。どうか持ちなおして。でも苦しくないように。そんなことを願いながら病院を、後にした。
多分もとのターシャには戻れないこと、予断の許さない状況ではあることを聞き、面会に行けないもどかしさを感じた。

ターシャはそれでも随分と頑張った。
急性期を脱したターシャは、その後療養病棟のある病院に転院した。
もって一月でしょう、とは言われたが
本当に一月位頑張った。
危篤の連絡を受けた日は仕事が休みで、うちの子達も家にいた休みの日だった。かろうじて駆けつけた時、まだターシャの手は温かく、呼吸は時折ゆっくりになったが、子供である兄と私、その伴侶、孫たち全員が時間差で駆けつけ、最後に姪が到着してまもなく、ターシャはセバスチャンのところへ旅立った。
セバスチャンは自宅でだったので間に合わなかったが、ターシャはセバスチャンに出来なかった曽孫にあうことと、みんなに見送られることを成し遂げていったのだ。すごいよ。ターシャ。

号泣するというより、じわじわと後から涙がでるのです。
noteで公開することではないかもしれない。
でも、、書くことで精一杯人生を生きたターシャのことを残しておこうと思い拙い文章ながら書き記しておこうと思います。

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