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本当の私(過去:幼少期〜10代)

本当の私。

今、みんなが知っている私は
「今の私」

今、こんな自分でいるのは
過去の私が生きていてくれたから。

まずは、これまでの私、ありがとう。

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過去の私
(幼少期)
私は、生まれてきてよかったのかな?
もともと、いらない子だったんじゃないか。

小学生に上る前からそう思ってきました。

それは、
ささいな母の一言から。
「あなたを生む前に、1回おろした事がある」
次々に妊娠することを恥じた。
妊娠を自分(母)は望んでいなかった。

と、聞いたこと。
入学前だったかな。もう年齢は覚えていないけど
その時から、
私は、産まれてきてよかったのかな。
お母さんは、無理して私を産んだのかな。
私が産まれてこなければ、家族は平和だったのかもしれない。
私がいなければ。。

幼いながらに、「母のひとこと」を私が勝手に
そう捉えて生きてきました。
後半で伝えますが、
自分の「捉え方、思い込み」によって
自分で自分を苦しめてきた。

私は愛されてたのかな。
産まれてきてよかった命なのかな。

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たぶん小学校上る前から
家庭内がぐちゃぐちゃだった。
父、祖母(父の母)、母、兄、姉、私
で暮らしていたけど、

家族が仲良かった記憶があまりない幼少期。
私は、祖母が大好きだった。
何でもできる、スーパーウーマン
今でも、憧れの女性像です。
個で見ると、そんな印象。
いつも見守ってくれている、
(私が守られているのは、祖母から守られているんだと
思ってます)

「家庭」の中で、見ると、
祖母は「母にとっての敵」に、見えていた。

幼少期の家庭内はドロドロぎすぎす。
だから私は、いい子でいなきゃ、期待に答えなきゃ。
という部分が形成されていったんだと思う。

鮮明に記憶に残っているのは、
・父がいなくなる前日の夜、離婚する。と告げていて、
 兄と姉は泣いていて、私は言葉の意味がわからなくて
 「りこんってなに?」って質問してたこと。
父は、幼い私に「お父さんとお母さんが別々に暮らすことだよ」
と教えてくれた。幼少期のひろこちゃんは、
「へ〜、そうなんだー。」とあっけらかんにしてました。
兄と姉は、ワンワン泣いてる意味が私にはわからなかった。
→その翌日からかな? 父はいなくなった。
父と一緒に寝た記憶は、私にはない。

・大やけどをした私の傷を、母はまず隠したこと。
処置が遅くて今でも火傷の跡は身体に残ってる。
(母は、祖母の矛先が自分に向かないようにするために、庭から取ってきたアロエを貼り、火傷が見えない服を着せた)
その後、祖母にばれ、離れて暮らす父に家に行ったときに
女の子なのに、身体に跡が残ったらどうするんだ!!と
怒りと焦り?なのかな。 一生懸命電話帳で皮膚科を探して電話して
病院に連れて行ってくれた。(父、ありがとう)

・母と祖母(義母)。の関係はどんどんギスギスで。
母が、自分の親と夜遅くにヒソヒソ電話としているところを、盗み聞きして
祖母がきれて包丁を持って2階に何度あがろうとおもったか。。と
祖母から聞いたことがある。
実際に、包丁持って階段を半分まで上がろうとしてたのを見た。
(祖母は大人になったときに、たくさんのことを話してくれた。そしてたくさん私を助けてくれた。祖母、ありがとう。たくさん迷惑けて、それでも見放さずにいてくれてありがとう)

・朝7時半くらいに、母が祖母に家を締め出されて、叫びながら兄に助けを求める。何があったのかは知らないけど、祖母の限界が来てたんだと思う。自分の息子(父)が、自分の家を出ているのに、なぜ母はいつまでも住んでいるのか。とかね。(近所の人は出勤、登校中)

そんな記憶がいっぱいの幼少期。

私のことを知っている人からは
苦労なんてしてなさそう。と、よく言われてきたけど
0〜小2までの記憶は、覚えているのはこんな感じです。
記憶がない。

このときに形成された私の天才性は
ずっと一人だったので
「創造する力」 なにもないところから、アタマで考えて生み出す力。
階段に一人で座って、寂しかったから、姉の帰りを待ってた。
妖精さんを召喚して、お話したり、ごっこ遊びを空想でしたり。
ぐっちゃぐちゃの家庭環境で、甘えられなくて
姉の後ろを金魚のフンみたいに着いていってた。
姉からは、着いてくるな!!!!といわれて、 悲しかったのを覚えてる(笑) 

私、しっかりしなきゃ。頼れない。だから自分でなんとかしなきゃ。
の感覚は、このときからある。。(たぶん小1とか。) 
下校中に殺されかけたのは、小2くらいだったきがする。(たぶん)

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小3で、校区内に引っ越した。
ザ団地みたいなとこ。兄弟3人と、母と。
このときから 『自立』を実践してた気がする。
母が作るご飯が、とにかく美味しくなくて(笑)
ごはんを作り始めたのはこのくらいから。
(シングルだったから忙しかったんだよね。そんな中でも、グリンコープ(身体によい物を扱う生協)の食品を頼んでくれてた。)
余裕なんてなかっただろうに、
食に対しては、意識してくれていたんだとおもう。
そんな母は、教師という仕事があったから
3人を育てられたんだと思う。
今、シングルマザーになって改めて
母に感謝しています。

母から、褒められた記憶がない。
教師だった母は、通知表にとにかく厳しかった。
親目線というより、教師目線だったのかな。
「結果主義」の母。
→「大人びてるところがある」と、当時の担任からの一言で
通知表をみて「はずかしい」と、怒って言われたことは忘れない。
(のちに、個性心理学に出会って、結果主義は、母の個性だと分かるまで、ずっと苦しかった)
できが良かった兄と姉。 そして私。
それなり。じゃ、だめだった。
常に、兄弟と比べられてる感じ。
とくに、姉は秀才だったから劣等感の塊だった。
(私は私なんだよ。だからちゃんと私の過程も見てよって思ってた。)

やりたくないピアノは
母が決めたから。ずっとやってた。(やらされてた感じ)
「紘子」という名前も、ピアニストの方から頂いた名前だそう。
「お姉ちゃんよりも指が長いから、あなたにはピアノをさせたかった。」
だそう。
自分の名前も、つけられた理由も、母の想いも
私には重たくて、自由はない。感じ。
(→そう捉えたのも、過去の私。で、その意味づけも書き換えた。)

反発しはじめて、ズル休みをしたり。
練習なんてやるはずもなく。笑
私は、ピアノを弾くことが嫌い、自分の名前も嫌い。
この環境も、比べられることも、
それなりじゃ評価されないことも、
「なんのために自分は生きてるんだろう」 
をずっと考えてきた小学中学時代です。笑
(重たくて、読んでで苦しくなったらごめんなさい。)

小学高学年は
いじめ、いじめられの繰り返し。
数ヶ月周期で自分の番が回ってくる。
いじめる側も、いじめられる側もどっちもやった。
いじめた子、本当にごめんなさい。


女子といるより、男子といるほうがラク。
女子には嫌われてたと思う。笑 
あの子が好きな、あの人。とか
あの子の彼氏のあの人と、普通にしゃべったら
次の日から、避けられる。とか
文句言われる。とか。 当たり前。
また、始まった。。。 って感じ。

女子の先輩からも目をつけられ
まー、はぶられたら、男子が気にかけて話しかけてくれるし。
そういう子でした。

こんな10代を過ごしてきて
『誰かとずっと一緒にいることはない』 
と悟ったと思う。笑


父親も、友達も、付き合う人も。
ひねくれてるかもしれないけど、
彼氏ができても、付き合うときから終わりを考えてた。笑
きっといつかは別れるんだから。
ってどこかで思ってた自分。
どこかで、ずっと大好きな父との出来事と
重ねていたとあとでわかりました。

↑ この考え方も、
今もまだ心の奥底に少し残ってます。
だけど、父親と向き合うこと、
本当の仲間に出会えて
今はもうなくなってきました。

過去の捉え方の捉え直し、意味づけ、紐付け
これによって、私は確実に
過去を切り替えて、感謝と捉えて
しっかり前を向いて歩いてます。

環境が構築する考え方も
過去、起こった事実に対して
当時の自分の抱く感情と意味付け、捉え方で
もし、自分の概念が固定されて
いることがあるとするなら

簡単には変えられないかもしれないし
向き合うことで、とても苦しい記憶を
思い出すかもしれない。
だけど、これを読んでいるあなたが
私の人生のストーリーで、
なにか考えることや
自分のことを振り返ってみることが
あるとするなら

フリカエって、その時の捉え方、意味づけ。
そこに、感謝が隠れているとするなら
あなたはどんな感謝を見つけますか?


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いろんな経験をしてきて
私が命をかけてやっていきたいことが
女性の精神的自立と経済的自立を応援すること。
そのために、まずは
過去の出来事を、捉え直しをして
意味付け直しをして、感謝に変えていくこと。

すべて繋がってます。

これを読んでくださったみなさんが
どう捉えて、どう意味づけをするのかは
あなたの自由です。
軽蔑しても、嫌いになっても、無理と思っても
私は自分の道を歩もうと思います。
愛と感謝をこめて。
誰しもが、自分のことを大切に、自分を愛して
自分らしく活きれるように。

最後まで読んでくれてありがとうございます。




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