「武士道」を読んで。 with 徳島J1昇格

これはただの集団 Advent Calendar 2020の16日目の記事です。

前置き

年末になると界隈でちょこちょこ目にするアドベントカレンダーだが、最近仕事にエンジニアリングと距離感ができていた自分には縁遠いもの割り切ってて、たまに知り合いが書いているのと分かれば横目で楽しませてもらう程度だった。
ところが、なんとここにきてお声掛けをいただき、滅多にないチャンスと思ったこともあって、この歳で初めて参加させていただくことにした。
誘っていただいた方は、エンジニアばかりじゃなく幅広い職種の人が参加するほうが世界が広がっていいというような素敵なことを仰るので、乗っからせていただいた。

そして実際に、多様な領域のエンジニア〜エンジニアリングマネージャに留まらず、人事やプロダクト企画の方なども参加していてDiversityが感じられる。これだけで「いい仲間」のいる「いい会社」を感じられるというものだ。

なんだか嬉しくて前置きが長くなってしまった・・・。
なのにさらに続くらしい。

前置き++

もともと今日12/16を選んだのは、名前の語呂に合う「16」が空いてたので飛び込んだというシンプルな理由だったが、後から意味が足されてきた。
というのも、私が社会人キャリアをスタートした頃から応援してきた地元クラブ「徳島VORTIS」がJ2首位で迎えたリーグ戦の最終盤、J1昇格をかけて戦うシビれる試合日と重なったからだ。
いまこうやって文章を書きながら、試合結果が分かってから投稿するか、試合前に投稿するかという(皆さんからしたらどうでもいいことを勝手に)あれこれ考えて楽しんでいる始末だ。
・・・と朝書いてて、やはり終日更新する間もなく試合開始、DAZNに釘付けとなり90分+アディショナルタイム・・・おかげさまで勝ちました!昇格決まりました。キャプテンと監督の涙目に加え、監督の通訳が途中で言葉に詰まる・・・泣きました。おめでとう徳島を愛するみんな!

既にえらい文字数を取って訳が分からなくなってきたが、
当初予定していた本題に入らせていただく。

新渡戸稲造の「武士道」を読んで

このアドベントカレンダーを、手元にずっとあるのに読めてなかった本を読む機会にさせてもらった。
「武士道」(新渡戸稲造著・岬龍一郎訳・PHP文庫)である。

言ってもかなりコンパクトな文庫本で、たぶん長めのフライトの直前に空港か駅の書店で買った気がする。おそらく海外旅行に行くにあたって「日本のことも知っといたほうが!」くらいの軽い動機で手にしたんじゃなかったかなと思う。
まぁ、日本人として「武士道」とか「禅」とか「茶」とかを語れたほうがいいと思うので・・・とかそんな緩い感じだ。
で、例に違わず、開きもせずに持ち帰り・・・
その後も何度か旅行の度に持ち出したもののページをめくらぬまま・・・
いつでも読める→いつまでも読まない、パターンにハマっていた代物だ。

さて、ご存知の方も多いと思うが、この本はアメリカで刊行されたもので、逆輸入的に日本語訳されて国内出版されているものだ。
解説からそのあたりを引用すると、

原題を『Busido - The Soul of Japan』といい、明治三十二年(1899年)アメリカから英文で発刊されたものであった
当時、日本は文明の先進諸国から見れば、未だアジアの果てのきわめて幼稚な国でしかなかった。ところが、その日本が日清戦争で“眠れる獅子”といわれた清国(中国)に勝ったことから、いちやく好奇な目で注目される国となった。なかには「野蛮で好戦的な民族」と中傷する者もあったろう。
「日本民族は正しく理解されていない」
おそらく新渡戸の胸中に、こうした思いがよぎったことは推測するに難くない。

つまり、当時アメリカに滞在していた新渡戸が、日本人の心に宿る伝統的精神を世界に知らしめたいというモチベーションで、それまで成文化されたものがなかった「武士道」を説いた本だった様子。
そして、その思いは見事に実現したようだ。

 新生日本の姿を知ろうとする欧米で、多くの読者を魅了した。(略)アメリカ、イギリス、ドイツ、ポーランド、ノルウェー、フランス、中国でも出版され、いちやく世界的な大ベストセラーとなって、新渡戸稲造の名も世界に知られることになるのだ。

著者の新渡戸稲造は岩手県の生まれ。

札幌農学校で学びキリスト教に入信し、アメリカへの私費留学中にメアリー夫人と結婚。札幌農学校に戻って教授を務めていた時に体調を崩してカリフォルニアで転地療養したらしく、その療養中に「武士道」を書きあげたらしい。
以降、旧制一高校長〜東京女子大学の初代学長などを歴任。津田塾の顧問も務めたとのこと。
ここに五千円札つながりを発見!2024年から津田梅子が五千円札の顔になる予定だが、新渡戸は(現行の樋口一葉の)先代の五千円札の顔だった。
国際連盟の事務次長時代はエスペラント語を作業語に推していたらしい。

まだ本題に入っていない。笑

序文より - 宗教教育がなくても道徳が形成される日本

初版刊行の十年ほど前にあったベルギーの法学者とのやりとりから始まる。

「日本の学校には宗教教育がないとおっしゃるのですか」(略)「宗教教育がない!それではあなた方はどのようにして道徳教育を授けるのですか」
私はその質問に愕然とし、すぐに答えることができなかった。なぜなら、私が子どものころに学んだ人の倫(みち)たる道徳の教えは、学校で習ったものではなかったからである。そこで、私の善悪や正義の観念を形成しているさまざまな要素を分析してみて初めて、そのような観念を吹き込んだものは武士道だったことに気づいたのである。

なるほど、そういう考え方に基づいた本なんだなとフレーミングされる。と同時に「へぇ〜外国の人は宗教教育で道徳を学ぶのかぁ」と感心してしまった。いい歳のおっさんなのに、こういうことから全然知らなかったりする・・・。
けど、こういうバックボーンの違いの理解がDiversityを進めるのに必要だったりするんだよなぁとかユルく思いを馳せる。

本文より - 「武士道」を理解するプロセスを追う

この本が武士道を語る論理展開というか筋書きを概観する意味で、章見出しをリストアップして、そのなかで印象に残ったフレーズを抜き書きしておきたいと思う。
正直、著者の代わりにサマれるほど読み込んだわけではないので、これでお許し願いたい。
読んでくださっている皆さんとの話のタネになればよいなと思ったり、私自身が思い出したり、再読する際のトリガーにしたいと思う。

第一章 武士道とはなにか

勇猛果敢なフェアプレーの精神
- 「小さな子をけっしていじめず、大きな子から逃げなかった者、という名を後に残したい」
- 「卑怯者」と「臆病者」は、健全でかつ純粋な性質の人間にとっては、もっとも侮蔑的なレッテルであった

【memo】スポーツマンシップに近い観念だと感じた。こういう道徳文化を持っているのにも関わらず、日本は一時期「体育」によってスポーツ嫌いな人を大量生産してしまう悲劇があったと考えると、なんだか切ない。

第二章 武士道の源はどこにあるか

第三章 義 −武士道の礎石−

第四章 勇 −勇気と忍耐−

犬死
- 勇気の精神的側面は沈着
- 平静さは静止の状態での勇気
- 合戦は…知的な勝負でもあった

【memo】「義」に突っ走るの気持ちを落ち着かせるという「勇」気を説明している。西欧でも猪突猛進の行為は賞賛には値しないとされるが、武士道でも死に値しないもののために死ぬことは「犬死」と言うと紹介している。
男子には訓練・鍛錬を積ませて辛さや痛みを与え、母親が「これしきの痛みで泣くとは」と諭して忍耐を養い、度胸を叩き込む数々の習わしを経て育てていく、これらが心の平静さを保つ「余裕」に繋がり、緊迫した合戦の最中でも当意即妙な掛け合いができるまでになるとのこと。戦国時代劇で見かけるシーンだが、この「知的な勝負」における冷静沈着さが戦を有利に運べる(だろうという)評価指標ということか。
たしかに現代でも『大きな仕事』をするために心の平静さが必要といえばそうかもしれないな。

第五章 仁 −慈悲の心−

- 伊達政宗がいったという「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる。」
- 「武士の情け」と言う言葉には、私たちの高潔なる心情に訴える美しき響きがあった。
- それはサムライの慈悲が盲目的な衝動にかられるものではなく、常に正義に対する適切な配慮を含んでの慈悲であったからだ。
- 武士の慈悲には受け手の利益や損害をもたらす力がふくまれていたからである。

【memo】武器を扱える武士は「受け手の利益や損害を」大きくもたらす存在であるから、正義を最優先に行動しなければならない、次の章でも語られるが、仁・義は大切ではあるが、それだけに盲目的にならず、行動を律しなければといけないということを語っている。

第六章 礼 −仁・義を型として表す

第七章 誠 −武士道に二言がない理由−

第八章 名誉 −命以上に大切な価値−

第九章 忠義 −武士は何のために生きるか−

- シェークスピアにも旧約聖書にも、わが日本で子が親を敬う「孝」という概念に相当する適切な言葉は見あたらない。しかしながら、わが武士道では、このような板挟みの場合、ためらうことなく忠義を選んだのである。
- 武士道では、アリストテレスや何人かの現代社会学者のように、個人より国家が先に存在すると考えた。つまり、個人は国家を担うための構成員として生まれたとみている。
- 要するに忠義とは、このような政治理論から生まれた道徳なのである。
- というのも、武士道においては主君と家臣という関係こそ、基本的な関係だったからである。(第十四章 p162)

【memo】いわゆる戦後生まれの私たちには違和感が強いと思われる「忠義」の章。 家族代々がお世話になっている主君のためなら自身や家族の命も惜しみなく差し出すという道徳観が登場する。
新渡戸が「旧約聖書にも」と書いているが、西欧にも忠義のようなものが求められる時代を経てきた国が多いあろうし、そういった封建主義的政治理論へのアンチテーゼとして、キリスト教が普及し勢力を拡大し、特権階級を許さない民主主義がグローバルスタンダード化しているのが現代。
忠義が良いという感覚はないが、国家をまとめる政治理論によって弱められたり打ち消されたりする道徳や文化というものがあるんだなということを再認識した。

第十章 武士はどのように教育されたのか

第十一章 克己 −自分に克つ−

日本人の微笑みの裏に隠されたもの
- 男でも女でも魂が揺さぶられたとき、日本人は本能的に、そのことが外へ表れるのを静に抑えようとする
- 日本人にとっての笑いは、逆境によって乱された心の平衡を取り戻そうとする努力を、うまく隠す役目を果たしているからである

第十二章 切腹と敵討ち −命をかけた義の実践−

第十三章 刀 −武士の魂−

第十四章 武家の女性に求められた理想

第十五章 武士道はいかにして「大和魂」となったか

- 私は武士道に、武士のあるべき姿の奥義と通俗的な教訓の双方があったことを認めている。 
- 武士道は(略)もともとはエリートである武士階級の栄光として登場したものだったが、やがて国民全体の憧れとなりその精神となったのである。 

第十六章 武士道はなお生き続けるか

- ヘンリー・ノーマンは極東事情を研究し、さらに観察した後、日本が他の東洋の専制諸国と異なる唯一の点は、「人類が考え出したことの中で、もっとも厳しく、もっとも高尚で、かつ厳密な名誉の掟が、国民の間に支配的な影響力を及ぼしたこと」であると断言している。
- 「小柄なジャップ」の持つ忍耐力、不屈の精神
- しかしながら、その反面、私たち日本人の欠点や短所もまた、大いに武士道に責任があることも認めなければ(略)

【memo】このあと、新渡戸は(おそらく西欧人に対して)日本人に足りない点を挙げて、これからの日本人を鼓舞している。

- 深遠な哲学の分野で偉業を達成した人はいない
- 形而上学的な思考訓練がおろそかにされてきた
- 過度に感じやすく、激しやすい性質
- 尊大な自負心を持っている
- 名誉心の病的な行き過ぎ

第十七章 武士道が日本人に遺したもの

- ヘブライ人の予言者(中略)のように、武士道は支配者階級の道徳的行為に重点を置きながら、その影響はあまねく国民全体の道徳となったのである。しかし一方でキリスト今日の道徳は、もっぱら個人およびキリストを個別に信仰する人々を対象にした。となると、個人主義が道徳の要素として力をつける民主主義社会においては、キリスト教の道徳はますます応用されていくだろう。
- キリスト教と唯物論は(略)いずれこれらが世界を二分するであろう。小さな道徳体系は、これらのどちらかに組み込まれて生き残りをはかるだろう。
- たしかに、武士道は独立した道徳体系の掟としては消え去るであろう。だが、その力はこの地上から滅び去るとは思えない。

以上なカンジです!
全く仕事に関係ないねじれの位置からの内容ですが、こういうのもアリだったらよかれと思います。

いい感じに締めを書きたいけど、まとめられる力がないので、よかったら、これをネタに飲みましょう!