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6 ありときりぎりす

修行

母が死んだのは私が18の時、
商売をしている家でこれは致命的だった。
残されたのは
キリギリス以外何者でもない父親と
それにそっくりな長女(私)、以下妹弟。
廃業するまでの10年間はなんかもう修行だった。

この修業時代については
普段は思いださなくていいことなので、
それを眺めたり触ったりはしない
どうしたって戻ってやり直せないから。
わざわざいじって自分を痛めつける理由も時間もない。

だから気が付いてなかったけれど
今思い起こしてみただけで
喉が詰まったように感じる
ってことはまだ十分に癒えていないってことなんだな。

父親が母親の保険金や貯蓄をすべて
すすきので使い果たしたことに気が付いたのは
母が死んで2~3年後のことだったけれど
私は父親をせめることもできない。
だって私もそっくりなんだから💦

その修行の10年間の間に
12月とか年末とかクリスマスいう言葉に
トラウマを持ってしまい。
何も心配することはなくなってもそれらに触れると動悸が上がるようになって。

それが薄れるのに20年くらいかかったから
仕方がないかもしれない。

律儀なきりぎりす

商売が苦しくても
生活を切り詰め、やりくりを頑張っていたわけでもないので、
家計が大変な理由は私にも大きくあっただろう。
きりぎりす(しかも高校生)に任せるからこういうことになる。

父に私たちを養う能力はないから
母は「まさよがいれば大丈夫」といって死んだ。
そうだ、そういわれたらこの子はやる子だと母は知っていた。
そしてその通りで
そのあたりが律儀できまじめすぎるのだと思う。

でも残念なことに
才覚に長けた祖母の血は
父はもちろん私も継がなかったので
商売が傾いても仕方がなかった。

このころから律儀なきりぎりすが歩み始めた。

商売は続け、妹たちの面倒は見るけど
きりぎりすだからすすきのでふらふらしてる。
律儀だからどちらもあきらめず二通りの道を歩く。

具体的に言えば夜中にすすきので遊んで明け方に帰り、
出かける前に仕込んでおいた揚げを使って
稲荷ずしを作り、重箱におかずを詰め、
中学生の妹を連れて弟の運動会に行く。

私は中学生のころから母の目を盗んで
すすきののDISCO(昔はこう呼んだ)に入り浸っていたのだけど
それとは別に
学校の「試験」というのも好きで、
その時期になると猛烈に勉強したくなる変なきりぎりすだった。
なんでだろう本当に不思議
どっちも確実に私の本質だと思える。

ブラックミュージックが心の底から好きだったので
「不良だからすすきのに通っていた」わけではなかった。
しかも日中ははっぴえんどから細野晴臣に心酔し、
音楽は欠かせなかった上に、かなりとっ散らかった趣味になっていた。

22で結婚したときには(え?これも22?と今気が付く💦)
私の熱烈な要望で
着物の入場が大好きな三橋美智也の長持ち歌💦
ドレスの入場が大好きなウィスパーズ
退場が大好きな山下達郎

洋服も両極端の好みがあって、
全く組み合わせが利かないラインナップで
着られないものが二通りでふえてしまう。

爆音のDISCO(当時はね)も
静謐な図書館も
どちらも涎が垂れるくらいの大好物
全てがそんな調子だった。
自分でも自分がよくわからなかった。
スキってのに律儀だったのかもしれない


きりぎりすで良かったヽ(^o^)丿

とはいえ律儀なので「がんばればいつかありになれる」と努力はした。
けれどそんな努力は3日も持たない。
ありになれないのは自分が悪いのだけど、
自分が悪いという思いも3日も持たない。

冬に寒かったら困るという思いを胸に抱きながら
新しい楽譜を探しては今だけを愉しむ。
この性格は治ることはないのだ。
でもそれでいいわけがない。
そんな思いが交互に襲ってくるだけで何も進展はなかった。

そうこうしていて
35歳くらいの時に夫の転勤で横浜で仕事をしていた時のこと
川崎の病院で皮膚がんだと告知される。
そう悪いものではないとのことだだったけど
乗り換えの桜木町の駅で私はこう思った。

良かった~~~!!
やりたかったことは全部やった
思い残すことはない。
ありじゃなくてきりぎりすで正解だったんだ~~!
いやもうありだったら地団駄踏んでるところだったわ。
ひゃ~!危なかった!

って
このあたりのこともブログから紹介して。

「昨日と全く違う今日」というのを体験したことがあります。

当然のように毎日は続くものだと思っていた日がひっくり返る日です。

当時横浜に住んでいた私は売場(港南台高島屋)でその電話を聞きます。
所属していた派遣会社から電話が来て(通常あり得ない出来事です)
「先生の所へ電話するように言付かった」と言うものでした。

ま、結局「ガン細胞が見つかったので、すぐに手術を入れます。」
と言うお話だったのですが、

私が「クリスマス前に休めない」と言うと、「そんな場合じゃない」と怒られました。

かくして、毎日普通に来るはずだった「明日」が「色を変え形を変え、全く知らない日常」へと変化しました。

普通にそこらにあったものが、透明な膜の向こうのもの
ふわふわと現実味を帯びないものとなり、私だけが取り残された感覚でした。

翌日の病院帰り、乗換の桜木町駅で「何となく帰りたくない」気持になり本屋でも行こうと思い立ち改札を出ました。

桜木町駅の出口に並んだ公衆電話を見て友人に電話をしました。
「あのね~、心配ないんだけどさ、ガンらしくて手術することになったんだ」というと
「アンタならきっと大丈夫、余計な心配しないで」と励まされました。

電話をかけながら私は目の前の空がピンク色に変わり、観覧車がキラキラとラメを振りかけたように光っていることに気が付きます。
夢の中なの?
外はまるで映画のバクダッドカフェの様にピンク色に霞んでいます。
ちょっと貧血でも起こしているのかもしれない。そう思いながら電話を切ったとたんのことです。

足下からせり上がって訪れたものがありました。
「至福感」でした。

何とも言えない、幸福で穏やかで幸せな感覚。
目の前の観覧車と私が違う世界、楽しい夢の中の中の空気にくるまれているようでした。

私の口からでた言葉はその時
「あ~~~~~楽しかった!!!すっごく楽しかった!ここ(地球)に来て良かった!」「ありじゃなくてきりぎりすで正解だったんだ~~!と言うものでした。

気分はまるで、「日長一日遊園地ですごく楽しく遊んで夕方に楽しく疲れて帰る」と言うものでした。
それから・・・その言葉と感覚は私にとって忘れられないものとなりました。
「あれはなんだったんだろう?」と。

単純に言えば「ベータエンドルフィン(脳内ホルモン)」の仕業ですが(笑)

私がその後、バシャールから精神世界にすんなりとはまっていったのは
その体験があったからでもあります。。


冬になればきりぎりすは暖かいアリの家で安らぐ音楽を演奏し、アリたちの見ていない空の話をし、アリたちに大切にされるのでした。

という新しい物語の終わり方を知ったのはその後10年くらいたった後でした。
求めよされば創造される。ということですね^^


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