信用と期待

信用と期待について最近思ったこと。


信用とは「それが確かなものと信じ、受け入れること」らしい。

一方、期待は「あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること」らしい。


ニュアンスに少し違いがありそうだ。


例えば、待ち合わせの時間が決まっていて、相手がその時間にきちんと現れるだろうと思うことは「信用」の部類という気がする。

待ち合わせの時間を守るということは一般的には当然のことだから。


例えば、共同生活をしていて、特にルール化されていないところの家事を相手がやってくれるだろうと思うことは「期待」になるだろう。

それを相手に求めるのが当然のこととは言えないから。


小学生の時、私はセンセイに褒められるのが好きで、割と優等生風に生きていた。でもある日、使用禁止の部屋で複数人でボールを投げ合って遊んだとかでひどく叱られた。その時、センセイは私に言った。

「信用を築くのは時間がかかって大変なことやけど、崩れるのは一瞬やでの」。

頭がクラクラした。学校の決まりは当然守るべきなのに守らなかった。センセイはもう私のことを信用してくれない。見放されてしまう。どうしよう、困った、悲しい、寂しい。

それで相当落ち込み、信用を失うようなことはなるべくしないように生きていこうと思った。なるべく。

センセイの信用失った事件以降も幾人かの信用は失ってしまったかもしれないが、本当になるべくがんばりたいとは思っている。

(今振り返れば学校には守る必要のないクソルールがいくつもあったのだが、それは本題ではないので今回はおいておく。)


さて、人から信用されることは良いが、期待されることもこれまた良い。

「期待しています」と言われると、やるしかないよねという気持ちがふつふつと湧いてくる。

そう、期待されるのは良いのだ。

おや?と思うのは、自分が誰かに期待することについてだ。

凡そ自分がする期待というのは「勝手」なものだ。これが肥大化すると大変なのだ。

あくまで望みをかけているだけの立場のはずなのだが、実現しないとア~アなんて思う。

相田みつを氏は記した。『のに』がつくとぐちが出る、と。

日常生活で「自分はこれだけしてやったのに、相手は応えてくれない」と思うことがないだろうか。これは勝手な期待。

なんだか、大抵の場合は相手に期待するということがおこがましいように思えてくる。

期待しない方が自分自身も楽に生きられそうだなと。最近思った次第。


先程書いた「期待しています」と言われるのも良いというのは、期待をきちんと「表明」してもらっているから良いのかもしれない。

相手が内心抱いている期待にも常に応えることができたらこれ以上ない素晴らしい関係なのだろうけれど、それはなかなか難しいからね。


まずは信用に足る人間でありたい。

それから誰かに期待してもらえる人間になれたらいいな、程度。

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