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『アルプスの少女ハイジ』に憧れて。オーストリア西部インスブルック滞在記

子どもの頃、「世界名作劇場」というテレビアニメが好きでよく見ていた。なかでもお気に入りが、スイス人作家の児童文学『アルプスの少女ハイジ』。幼くして両親を亡くしたハイジが、美しいアルプスの山で天真爛漫にたくましく成長していく物語だ。日本でも翻訳・アニメ化され、多くの人に親しまれてきた名作である。

このアニメのなかでとくに心奪われたシーンがある。アルムおんじが暖炉の火でチーズを炙り、とろ~りとろけたチーズを分厚く切ったパンにのせ、それを少女ハイジがパクっとかぶりつく。丸っこい木製の器に搾りたてヤギのミルクが注がれ、ゴクゴク飲みほす。

「あー、いいなあ……」

幼い私はうっとりした。どんな味で、どんな匂いがするんだろう。「暖炉でチーズを炙る」って、なんて素敵な響きだろう。

壮大なアルプスの大自然、屋根裏部屋の干し草ベッド、素朴ながらも豊かな山小屋の暮らし… ハイジの世界観を、いつか私も丸ごと体験してみたいと夢見ていた。

26歳の時、仕事を辞め、夢だった世界一周の旅に出発した。メキシコを皮切りに、1年かけてバックパックで中南米、ヨーロッパ、アフリカ、中東、インド、東南アジアをぐるっと周遊。

ヨーロッパの旅で一番やりたかったことは、「アルプスの山でハイジの世界を味わう」。ハイジよりずいぶんお姉さんになっていたものの、幼少に抱いた夢を諦めていなかった。

しかし貧乏バックパッカーに立ちはだかったのが、原作の舞台であるスイスの「物価が高すぎる問題」。旅の予算を考えると現実的ではない。

悩んでいた矢先、オーストリア人の友人が「オーストリアのチロル地方でもアルプスの絶景が見れるよ。スイスより物価が安いしおすすめ」と教えてくれた。

それだ!彼女のアドバイスを受けて、オーストリア西部の街インスブルックを夢実現の舞台に決めた。

2016年8月末、オーストリアの音楽の都ザルツブルクから3時間ほど電車に揺られ、インスブルックの地に降り立った。到着した日の天気は曇りときどき雨。

インスブルック滞在初日は灰色の雲に覆われていた

インスブルックはオーストリア西部に位置するチロル州の州都で、北はドイツ、南はイタリア、西はスイスの雄大なアルプスの山々に囲まれている。

ウィンタースポーツが盛んで、過去に2回冬季オリンピックが開催されたこともある。ハプスブルク王朝の影響を受け、旧市街には中世の歴史的建造物が多く残される美しい街だ。

ハプスブルク家の栄華が香る、美しい旧市街の街並み

インスブルックに着いた瞬間、ピンときた。この街、絶対に好きになる。庶民の私には気後れするほどお洒落な首都ウィーンに比べ、2,000m級の雄大な山々に囲まれたなかにポツンと佇むインスブルックの街は穏やかで、等身大の自分でいられる気がした。

今日からインスブルックに5泊6日滞在する。宿は民泊を利用し、マニュエラという名前の20歳の女の子のアパートの一室を借りることになった。彼女は1ヵ月ほどイタリア旅行で留守にするらしく、空っぽになった部屋を私が貸し切りで使えるのだ。

私がアパートに到着すると、マニュエラの妹さんが「ようこそ」と笑顔で出迎えてくれた。なかに入ると、センスを感じる壁掛けや照明など、とにかく内装がお洒落。浴室はバスタブ付きで洗濯機も使える。

インスブルックで5泊6日を過ごした素敵なアパートの寝室

マニュエラは、インスブルック市内のバスの乗り方について説明した丁寧なメモまで残してくれていた。「ウェルカム・トゥー・インスブルック」と書かれた可愛いボードが、旅の疲れを癒してくれる。

可愛いウェルカムボードのおもてなしにホッコリ

妹さんは調理道具の置き場所など部屋の隅々を案内してくれたあと、「あなたの家だと思って自由に過ごしてね」と言い残して去っていった。

広々としたキッチン。自炊に必要な道具がなんでも揃っていた

ひとりきりになった私は、ぐるっと部屋を一周した。飽き足らずもう一度部屋を一周してから、「ふぅ」と息をついた。ひとり暮らし未経験の私が、この素敵な空間を独り占めできるなんて…!

今日からどんな4泊5日を過ごそうか。自炊生活に完璧すぎるキッチンを眺めた。そうだ、とりあえず買い出しに行こう。

海外のスーパーが好きだ。珍しい食材や、買い物する現地民の様子を眺めていると、彼らの日常に溶け込んだ気分に浸れる。ドイツ語で書いたメモを店員に見せながら、卵、ブルーベリー、鶏肉…… 調子に乗ってどんどんカゴに放り込んでいたら、会計のとき所持金が足りなかった。これだから私は “トラブルメーカー” と呼ばれるのである。

どっさり買い込んだ食材を、アパートのテーブルの上に広げた。旅に出る前は、料理はおろか買い物もしたことがなかった。しかし旅生活で自炊を余儀なくされ、7か月が経過した今、簡単なパスタや和食が作れるようになっていた。旅には思わぬ産物がある。

スーパーで購入した食料品

「ハイジごはん」を再現するための “3種の神器” は、黒パン、チーズ、ヤギのミルクだ。

日本のパン屋で「ハイジの白パン」という名のパンをよく見かけたものだから、ハイジが食べていたのはてっきり「白パン」だと思い込んでいた。でも実際には、厳しい気候のアルプスの山では小麦が育たない。当時、小麦から作る白パンは高級品で、ハイジたちが食べていたのはライ麦でできた「黒パン」だった。

黒パンしか食べたことがないハイジが、裕福なクララの家で初めて白パンを口にし、その柔らかさに驚いたというエピソードがある。

「ハイジごはん」を再現するための三種の神器

アニメに登場するチーズはとくに設定がないようだが、ハイジが食べていたものにもっとも近いと噂の「ラクレットチーズ」を買った。セミハードチーズの一種で、そのままの状態だとクセが強く独特な香りがする。だが加熱すると、濃厚でコクがある絶品に様変わりするのだ。

チーズの切り口を火で炙って、とけた部分をパンやジャガイモなど好みの食材にかけて食べるのが一般的な食べ方らしい。

早速やってみよう。理想は「暖炉の火で炙る」だったが、民泊先のキッチンはIH仕様だったので、フライパンで熱していく。数分したらチーズがとろとろ溶けだして、それをスライスした黒パンにそっとのっけたら…… はい、できあがり!

黒パンに加熱したラクレットチーズをかけて食べたら絶品だった

スーパーで買ったヤギミルクをカップに注ぐと、憧れていた「ハイジごはん」が完成し、嬉しくて笑いが込み上げてくる。パクっとかじると、ラクレットチーズが濃厚でたまらない。

だが衝撃だったのは、ヤギミルクの癖の強さだった。安物だったからかもしれないが、一瞬思考が停止するほど不味くて、正直吐きそうだった。同時に、人生で初めて体験する味との出会いに、奇妙な喜びが湧いた。

翌朝6時。起きて寝室のカーテンを開け、窓の外を見て息をのんだ。昨日のグレーな雲が覆っていた空から一転、ピカピカの青空が広がっていた。

インスブルック滞在2日目の朝は、雲ひとつない青空

「今日を逃したら、快晴なアルプスの絶景を拝めないかもしれない」

山の天気は変わりやすい。居ても立っても居られずベッドから飛び起き、顔を洗い、化粧を済ませ、リュックにランチを詰め込んで、7時にアパートを出発した。

インスブルックにはハイキングやトレッキングを楽しめる山が数多くあるが、「ハーフェレカー・シュピッツェ」という山に決めた。標高2,334mを誇るハーフェレカー山頂へは、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いでアクセスでき、初心者にも優しい。

ロープウェイが少しずつ山頂に近づいていく。胸の高鳴りが止まらない。そしてついに…

ハーフェレカー山頂に近づくロープウェイから撮影

目の前に広がっていたのは、雄大なアルプスの山々が織りなす360度の大パノラマ。「スゥ~!」と澄みきった空気を吸い込む。

雄大なアルプス山脈の絶景

生命力あふれる広大な草原で、ヒツジやヤギたちがのんびり寝そべっていた。足元には可憐な高山植物。ついにハイジの世界に辿り着いたんだ!

のんびり草原に寝そべるヒツジやヤギたち

ハイジ感を少しでも演出するべく、山頂のトイレでワンピースに着替え、ポーランドで買った花輪を髪に付けた。ちなみにほかの観光客は、完全装備のトレッキングウェア。

ポーランドで購入していた花輪

よし、準備万端。アルプスの絶景をバックに、10秒タイマーをセットして全力で自撮りした。ボタンを押すと同時に所定の位置にスタンバイして、ジャンプ!山頂でワンピース姿の東洋人がぴょんぴょん飛び跳ねる様子は滑稽で、かなり「やばい人」に見えただろう。

山頂でぴょんぴょん跳ねるおかしな東洋人

旅は良い。「もう会うことはないだろう」と思うから、人目を気にせずに堂々とやりたいことができる。自分の変人ぶりがおかしかった。同時に、やりたいことをしている自分が生き生きして、とても好きだと思った。

ハイジの主題歌を口ずさんで夢中で散歩していたら、2時間経っていた。お腹がグゥと鳴ったので、そろそろランチにしよう。

ひとりきりになれる素敵な場所を見つけ、石の上に腰を下ろす。アパートで拝借したバスケットに黒パンとチーズを並べ、水筒に入れたヤギミルクをカップに注いだ。

ラクレットチーズは本来加熱して食べるものだけど、どうしても山で食べたかったので仕方がない。質素なランチだったし、相変わらずヤギミルクは癖が強かったが、それでも幸せだった。

アルプスの山で食べたハイジごはん

草の良い匂いがする。遠くから、ヒツジやヤギの首につけられた鈴の音がリンリンと聞こえる。胸がいっぱいだった。パンを一口一口味わっているうち、気付いたらちょっと泣いていた。

26歳のハイジがそこにいた。

あれから6年。インスブルックで過ごした日々を思い出すと、ひとりでニンマリしてしまう。泣きそうになるほどの胸の高鳴り、自然を慈しむ気持ち。写真を見返すたび童心を取り戻す。

いくつになってもやりたいことをやる人生にしよう。自分の気持ちに正直に生きるんだ。アルプスでの体験は、今でも私を私らしくしてくれる。


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