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『証言①:或る思想犯の失踪について』


「私は、この部屋で彼と暮らしていました。朝、同じ時間に起きて、同じ朝食を食べ、同じ職場へと、同じ電車で通っていました。仕事内容も基本的に同じで、彼はよく私に相談に来ました。仕事が終わると、同じ電車に乗って帰り、同じタイミングで家につき、同じ夕食を食べます。私たちは常にとは言いませんけど、一日の内のほとんどの時間を共にしていたのです。しかしまあ、彼は疲れると私よりも早く眠ってしまうので、夜、眠る時間は私のほうが遅かったかもしれません。」


「基本的に良好な関係でしたよ。これだけ一日の内の時間を共有しても、それで嫌気がさすことは、ほとんどなかったんですから。」


「ただ、彼は優しすぎるところがありましてね、そういったことに対し、私がうんざりするようなことはありましたけど。」

「例えば、こんなことがありました。これは彼が年老いた叔母の家を訪問した時の話です。

彼は幼少のころから、この叔母に非常に良くしてもらっていました。いや、よくしてもらっていたのは彼の両親でしょうか。共働きの両親に代わり、叔母は、まるで本当のわが子のように彼の世話をしてくれました。つまり、叔母は、彼に対して非常に厳格であり、高慢であったのです。…親とはきっと、そういうものでしょう?

長い時間を叔母と過ごしましたが、叔母に褒められた記憶は彼にはありません。」


「そんな叔母も、旦那にも先立たれ、年老いてしまった今は、一人、自宅で過ごす日々が続いています。彼女にとって、一か月に一度の彼の訪問は、唯一の気晴らしと言っても過言ではなかったのでしょうね。」


「その日、叔母は彼に一杯のスープを出してくれました。昔からの彼女の得意料理で、彼が来るたびに作っていたスープです。野菜だらけで水っぽいそのスープを、彼はいつも『おいしい、ありがとう』と言いながら飲んでいたそうです。

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