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人が生きる価値

ふと、人が生きる意味を考える。
自分が生きる意味では無い、人が生きる意味。
私は、生まれて19年間関わってきた人達がいる。
偶然クラスメイトで。偶然関わって。
言ってしまえば、あの人の代わりも、勿論私の代わりも沢山いた。
偶然そこに居た人達で、私の思い出や人格が形成されていく。

人類が生きていく中で、1人欠けたぐらいで社会の歯車が狂う訳がない。
1人の人がいなくなったくらいで、世の中の大多数が、何も感じずに1日を過ごす。

生きる価値が欲しいともがいていた時期があったけれど(今もある…w)、価値がある人間なんてこの世に1人も居ない。
野球の大谷さんなどの偉業を成し遂げた人々には価値があるのでは無いかと考えるけれども、その価値は生きる価値では無い気がする。
有名だから価値があるのか?
才能があるから価値があるのか?
逆にネガティブだったら、平均より出来る事が少なかったら価値はないのか?

そんな簡単な事では無い。
そんな簡単な事で絞れる、縛れる価値ではない。
なんだか難しいよね。

価値が社会的に確約されているものはお金だけ。
生きる価値が確約されて生まれてくる人なんて居ない。
価値が確約されているものは、消費されてしまうだけだけれど、私たちは価値が社会に確約されていないから、堂々と、そして弱々しくも永遠と生きれる。

自分が生きる価値を変えられるのは自分だけ。
元々存在しない価値を感じたいのなら、それは自分で奮い立たせなければならない。
何らかの希望や夢や、幻想をもたなければいけない。

他人の役に立ったり、褒めてもらったりして貰う他人からの評価は、一見生きる価値を付けられたかのように見えるけれども、やはりそれは変動する。
他人からの価値は、嫌なことに永遠では無い。

しかし、『生きて良いのだ』と自分で価値を付けるのは、少しナルシストで、自意識過剰でも無いと難しい。
存在しない物を信じるんだもの。

そんなの、自分の感情もコントロール出来ないのに無理な話だ。

なんというか、こういう小難しい事を考えるよりも、頭を空っぽにして無責任に生きた方が楽…なんだけれども。

変動する他人の考えも、自分の考えも、上手く受け入れて、上手く価値を感じれたら良いのに。

本当に、そんな簡単なことではない。

そんな簡単な事では無いってわかってるけど。

自分で付けれる価値がまだ世の中にあるのなら、私はそれを探したい。

自分の好きな所が増えれば増えるほど、自分自身で半永久の価値を付けれる機会ができる。
そこで価値を付けるかどうかは自分次第だけれど、それは他人から感じる価値よりも強固だろう。


上手く絵が描けたり、楽器が吹けたり、平均レベルでスポーツができる自分に価値があると思う。

物事の飲み込みが少し早い自分に少し価値があると思う。

何でも興味を持つ自分の子供心に価値があると思う。

…エトセトラ!

もう、本当に思い込みなのだ。
だって本当は、価値なんてこれっぽっちもないんだし。
他人と比べてしまったら、上なんて幾らでもいる。永遠と。
私たちは思い込みで価値をつけて生きなきゃいけない。
馬鹿にならなきゃいけない。

例えば、私はゴルフをした事が無いけれど、もしかしたらゴルフの才能があるかもしれない。

そしたら、自分の価値を増やす事ができるのだ。

経験や思考、そして技術。

何かの可能性があるのに、試さないなんて勿体無い気がする。
経験して、勉強して、一回頑張ってみる。
ダメだったら違うものを試してみる。

それで
『この自分好きだ。この自分は、自分にとって価値があると思う』
と思える人になれる様に。

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