二十の原点パラ読み女子大生の独り言。その3。
前回もちゃんとかきたさよりも眠気が勝ってしまった。まったく情けない。
今回は彼女が伊達眼鏡をかけていることについてなんとなく考えてみる。
日記のなかで彼女はメガネをかけていることをこう記していた。
私の目をガラスで防衛しているということ。相手はガラスを通してしか私のオメメを見られない。真実の私はメガネをとったところにある。
彼女にとってはメガネは視力の補助具ではなく、心の防具として機能していたのだろうか。
真実の私はメガネをとったところにある。というけれど、彼女すらもその真実を知らなかったと思う。彼女自身にすら自分の真実を知られることのないよう、自分にすらガラスを通してしか世界を見せようとしなかったのではないだろうか、無意識的に。
なぜならこの手記のなかで彼女は本当の自分を探しているようにみえたから。
本当の自分ってなにかわからないまま、自分の姿を垂れ流し続ける。それくらいならいっそ、偽りの自分といいきかせた姿でいる方がよほど安心する。と思っていたのではないだろうか。
しかし一方では、未だわからぬ自分の姿を探し、そして偽ろうという精神の未熟さや傲慢さに辟易もしていたのではないかと思う。(これは言い過ぎかな)
なんとなく、この感覚はわかる。そして、自分を偽っているという意識と、それを悟らせない努力をしてしまう自己への内省は太宰治の人間失格に近しい感覚のような気がした。
自分から理解者を得られぬよう振舞ってしまうこと、しかしそうすることで、どこかに埋められない孤独を抱えてしまうこと。
それが彼女の孤独の満たし方であったのかもしれないし、心の守り方だったのかもしれない。
だけど人間どこかで本心は小出しにしないとおかしくなっちゃうし、中島敦曰く、自尊心は肥え太って虎にだってなってしまうのではないだろうか。
人は他人との関わりのなかでしか、自分を知ることはできない。なんてことを私は中学の国語の作文で書いていた。
私ってあの頃のほうが心が成長していたんだなぁとしみじみする。(遠い目)
他者との心からの交流を避けるということは自分のこともわからずじまいで生きていくってことだ。人と関わるとその分傷つくことも傷つけることも増えちゃうけど。怖いよねそういうの。わかる。すごくわかる。
でも、私はメガネをかけずに生きていきたいって思うよ。
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