捨てられない気持ち。

私の人間関係は過渡期を迎えている。
というか迎えていた。気づいたのが遅かったのだ。大学時代とまったく同じ仲間なんてできないとわかっていなくてもがき続けた2年間。
いろんな人と話して、遊ぶ会を企画して、と過ごしてきたつもりだった。でも、気づいたら連絡とりあい気軽に遊べる友人は結局大学時代の友人を除いていなくなっていた。

大学を出て、地元に帰ってきた2年間、私は一体何をしていたんだろうか。少し、人脈、人脈、みたいに躍起になっていた自分もいたと思う。なんかイタくて恥ずかしい。でも人生はいつでも躍起になっていてみっともないものなんだろうな。とか言っておく。

残った縁もある。残したい縁もある。
縁がなかったとしか言いようもないような、繋げても、風が吹いたら吹き飛ぶような人間関係をつなげ続けることに疲れてしまった。前はそれが楽しくて仕方なかったのに。それが私を違うところに連れて行ってくれる、成長させてくれるはず、と頑なに信じていた。信じて人と会うことを頑張っていた。いつか、誰かに認められるはずで、正しいね、その頑張りは仕事や人生に活きるものだよ、っていわれたくて、認めて欲しくて、出会う人に感謝されたかった。そんなこと望んだって仕方ないとわかっていても、なんかそういう気持ちが心をかすめていた。ずっと、新しい出会いが新しい発見をもたらしてくれるものだと常々思っていた。そしてそれが皆が求めていることなのではないか、とも考えていた。だから集まりを主催したり、自分から人を誘って出かけている私は感謝されるべきではないか、とも思っていたけれど、こんなことを思う奴は嫌な奴だとも思っていた。

もうやめたい。自分のためにやってきたけれど、らしくない方法だったのかも。無理矢理だったのかも。私が間違っていたのかも・・・。ただの自己満足の域を出ない行いなのに、自分の価値観を人に押し付けんとしていたのかも。
人脈こそ真理教の布教をしていたのかも。

見方を変えたら一時的であれその関係によって私はコロナ禍においても精神衛生上の健康を保てていた。他人のためではなく、半分以上自分のためでもある行動だったのだ。ついて来た結果はおまけの副産物くらいの気持ちでいられたらよかった。

人脈を求めて活動するのを諦めていいのか、私はすごく迷っている。自分の行き着く先はここなのか?みたいな、気持ちがある。でも、現に私は疲れてしまっている。私が誘うだけの関係について嫌気が差している。
しばらく休んだって、私ならやりたいと思えば上手くやれる、きっと大丈夫。

なんか寂しいんだよな、ここじゃないどこかに行きたくて、行けなくて、私は頑張っていたのだと思う。居場所がいくつも欲しかった。・・・もういいじゃないか、私が本当に気兼ねなく会えて、私を大切に扱ってくれる人との時間を大切にするべきではないか。

でも、私は信じているのだ。「人は人間関係のなかでしか生きられないし、頼れる先は多い方がいい。自立とは、依存先を増やすこと。」人と繋がろうとすることは決して無駄なんかじゃなくて、いつか私の人生の助けになるはずだ。だから、私は人と関わることはやめない。自分の信じた生きる道だ。この矜恃は捨てないでいよう。

そして、勇気を持って、人脈こそ真理教の活動を休もう。今はこれまでの行いが無価値に思えても、いつか繋がるのかもしれない。どこかで意味を成すかもしれないはあるいはなさいないかもしれないけれど。


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