てか、『憂鬱でもう生きていきたくない』って考え方、本当に俺か?
てか、『憂鬱でもう生きていたくない』って考え方、本当に俺か?
女性向け女性アイドルの曲の歌詞が、あまりにも女性的だった。
『些細な出来事で気分がものすごく変わっちゃう。私たち、不機嫌になりやすいし、機嫌がいい時は大はしゃぎする!』
『可愛いものに囲まれてるとそれだけで楽しい! 逆は最悪』
『あの人と話せるだけで幸せ。話せないと不安になっちゃう』
これね。ずっとこんな感じのことを歌ってた。(曲はめちゃくちゃ良かった)
こういうのって、男の俺が二十六年間生きてきて思う、『すごい女の子っぽい感じ』なんだよね。
なんかそういうのあるでしょ。なんかそういうのが『女の子っぽい感じ』みたいな。
多分、この曲を聞いてる女の子たちも、「私のことを歌ってる!」みたいに思うのかもしれない。いや、事実思っているから人気になるんだろう。
でも、ちょっと待ってほしい。
それ、本当に「私のこと歌ってる」の?
卵が先か鶏が先か。果たして、曲を聞く前からそういう私が存在していたのか、はたまた、曲を聞いてからそういう私が生まれたのか。
優れた芸術は人の心を動かす。もしかして、共感だと思っていたその気持ちは憧れではなかっただろうか?
今までの私の人生の失敗。気分の浮き沈みのせいであの人を傷つけた。私も傷ついた。でも、あの人と話せたら気分が戻った。でも、でも、でも、でも。
そんな『本来なら反省して改善しなくてはいけない自分の汚点』をその音楽は『女の子っぽい感じ』に置き換えてくれているんじゃないだろうか。
免罪符じゃないの? 私が頑張らなくて済む免罪符なんじゃないの?
だって、男の俺だってそういうことを歌われてて、みんながそれに共感してたら、「男ってそういうもんだからな」って納得してそういう生き方をすると思うよ。気分屋でそれが許されるなんて最高だし。
そこまで考えて、俺は思ったわけだ。いや待てよと。本当に俺はこの『女の子っぽい感じ事件』の傍観者になれるのかって。
いや、なれない。なぜなら、俺は俺で『社会に溶け込めないのは俺は人とは価値観が違うっぽい感じ事件』に巻き込まれているかもしれないからだ。
鬱ソング。そこで歌われる鬱のほとんどは原因不明ではない。大体が『社会性』と『自分』の差だ。
初めて神聖かまってちゃんというバンドの曲を聞いた時、死にたいとか、殺したいとか、そういう人の鬱を歌っていた。
激しい共感を覚えた。
しかし、共感を覚えた時より前の俺は、今ほど洗練された鬱概念を持っていただろうか?
俺が今手にしている鬱概念とは、誰かが作り上げた『上手な惰性』ではないんだろうか?
いや待ってくれ、その鬱コミュニティーは、理解できる人には理解できるもので、同じ気持ちの人がいると、励ましあいながら、頑張ろうと思えるぞ!
とも思った。でも、同じ『社会性』と『自分』の差を死にたいだとか殺したいで穴埋めしている俺たちが集まって励まし合ったところで、何を頑張ると言うのだろうか?
きっと、この時の頑張るは、我慢のことだ。現状を変えずに考え方を変えて、今を楽にする方法。
もし、『洗練された鬱概念』と出会わなかったとしたら、俺は今の気持ちをどう表現し、どう打開するのだろうか。
憂鬱で生きていたくない。これって、俺の本質じゃないかもしれない。まだわからないけど、かもしれない。
今まで見てきた作品が良すぎて、俺は騙されているのかもしれない。本当の俺は憂鬱をバネにして希望に向かいたいのかもしれない。本当の私はわがままな可愛さよりも、タフなカッコよさに憧れてるのかもしれない。
けど、気を抜くとやっぱり楽な方に行ってしまうよな。
まあそれも、本当の俺なんだろうけど。
鳥居ぴぴき 1994年5月17日生まれ 思いつきで、文章書いてます。