日記①

日記を公開するようになったら変態だよ、お嬢さん。去年のものから、続きます。

20211007
『博士の愛した数式』で友愛数の話があったけど220と284、みたいな関係に憧れちゃうな。目に見えない絆があって、お互いが世界でたったひとりの存在。大切なものはいつも目に見えないって、『星の王子さま』でも言ってたな。
好きなひとが日記をつけていたのが羨ましくて、こっそり始めてみた。秘密話をしているみたいでどきどきする。
心が揺れたときは短歌を、感情を吐き出すときには詩を、想いを伝えたいときには小説を書くけれど、日記に関してはあんまり「いま」という瞬間がないかも。なんとなくね。
20211018
「雷や烈火に似ずともかすみ草あつめて束にするような恋」これは以前詠んだ短歌だけど、わたしはいつもこういうふうにひとを愛するよな、と思う。
雷に打たれたような一目惚れも、炎のように燃え上がる恋も、心臓がはち切れそうな片想いも、経験がない。デミロマンティックのきらいがあるわたしは少しずつ相手を知って好きになる。友達でも、恋人でも、強い信頼の先に生まれる感情が愛だと思う。
一方で、「ゼロひとつ含んだ長き掛け算を終えたるごとし人と別れて」これは俵万智の短歌だけど、これもまた真理だよねという気がしている。
時間をかけてあつめたかすみ草の花束がどこかでダメになることは、どこかで(もしかしたら最初から)決まっていたことかもしれない。それって最悪だけど、早いうちに気づけたらいいんだろうな。
20211019
久しぶりに江戸川乱歩を読んだ。『D坂の殺人事件』と『怪人二十面相』を読んで、懐かしくてどきどきした。小学2年生のころ、江戸川乱歩に熱狂した。推理小説だとアルセーヌ・ルパンのシリーズも好きだったけど、江戸川乱歩はどこか親密で優しい感じがして、とくべつだった。図書館にあるシリーズは全部読んだし、映画化記念で発売された少年探偵団のバッチは喜んで鞄につけていた。わたしも少年探偵団の一員になれた気がした。明智小五郎と小林芳雄の関係に憧れて、わたしもこんなふうな師弟関係を誰かと結べるだろうかと夢みた。憧れ、信頼し、いつかこんなふうになりたいと思えるひとも、わくわくした冒険も、今のところ出会っていないけど。
今日は実験で上手くいかなくて、泣きそうになった。沢山の時間をかけたことが、一瞬でだめになった。こんなふうに行き詰まったとき、芳雄くんなら「何か手があるはずだ」と七つ道具を取り出して、頭をうんとひねって、解決策を必ず見つけるだろうな。どうしようもなくなっても、明智先生がきっと助けてくれる。それってとっても幸せなことだよ、わたしはずっと芳雄くんが羨ましいよ、と馬鹿みたいだけどほんとうに思っている。
20211020
小川洋子の作品に共通するテーマとして、消失というものがあるのは広く知られたことだと思う。
『薬指の標本』では薬指が、『沈黙博物館』では声、『博士の愛した数式』では記憶、『密やかな結晶』では存在そのものが消えてゆく描写がある。わたしが小川洋子の作品を好きな理由はこの消失が呼び起こす、寂しさや哀しさを織り交ぜた慕情のような気持ちにある。消失は必ずしも悲劇ではない。消えていったものを想うとき、心の奥底がじんわりと痛み、小さく揺れる。呼吸が苦しくなる気持ちにすらなって、そのときわたしという肉体に水が注ぎ込まれてゆき海になる想像をする。自分の深海部分に隠された鼓動を感じて、わたしはここにいるのだとはっきり分かる。わたしにとって最も大切なものを指先で感じとることができる。
『猫を抱いて象と泳ぐ』でリトル・アリョーヒンが恐れたこと、それは「大きくなること」だった。わたしも幼い頃、自分が成長することに怯えた日があったのを覚えている。姉の身長を越してしまったとき、何か重大な間違いをしてしまった気がして、ベッドの中で泣きじゃくった。身体のことだけじゃなくても、気持ちに関してもそうだ。このまま進み続けたら気付いた頃には入り口の扉には収まらなくなっていて、二度と戻れないような気持ちになることがある。そういう不安がときどき歩みを止めてしまう。「これ以上行ったらだめだ。此処へ入ったら二度と外にはでられない、一生をここで過ごすことになる」そんな気がかりがいつまでもあるのだけど、素知らぬ顔をして今日も生きている。
20211021
「お師匠様と唯二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした」
谷崎潤一郎の『春琴抄』にて、自らの目を潰した佐助の台詞に、背筋がぞくりと震えた。
異常なまでの愛とも執着とも依存ともつかない感情に恐ろしさやおぞましさを感じる一方、一種の憧れを抱く。誰かにこれほどまでに焦がれたり、またはこれほどまでに求められるのって、どんな気持ちがするだろう?
めしいとなって暗闇の世界にふたりきりになったとき、佐助と春琴はようやくそこで真に出会えたという気がする。こんなふうに世間と遠い場所でひっそりと、ふたりにしかない絆で繋がるのって、誰もが理解も体験もできない究極の幸福なんじゃないかとすら思い、恍惚とする。
わたしはあんまり他人に興味を持つほうでも利他的な人間でもないし、かなりマイペースで他人から干渉されるのが好きじゃないし、自分を一番大切にしていたいから、自己犠牲的な愛っていうのは正直あんまりわからない。
もっとも、佐助の愛というのは個人的には自己犠牲というよりは自己満足に近く、春琴の為を想っているようで自分の中の憧憬やマゾヒズムを守ることが優先されている気がして自分本位なものに感じるけれど…。
20211022
自由奔放で掴みどころのない女の子が好き。映画だと『500日のサマー』のサマー、『ルビー・スパークス』のルビーみたいな、追えば追うほど去ってゆく感じのする女の子に憧れる。
三島由紀夫の『夏子の冒険』における夏子は、まさしく自由で予想のつかなくて我儘で、かわいい。ページをめくるたび恋をしたような気持ちになって、「夏子ちゃん、どうしてそんなことを言うの」とか「夏子ちゃんってむずかしくて手に負えない」とか戸惑いつつ気付くと目が離せずに惹かれている。そういうふうに夏子という人間に対するある種衝動的な恋慕の情を抱く一方、夏子の恋愛観に深い共感を覚えるのもまた女の子であるわたしだった。
何かに情熱を向ける人間に強く惹かれる。それも表面的なものではなく、自らの内側に向けられた情熱のことだ。逆に言えば、情熱のない人間に全くと言っていいほど興味が持てない。空っぽの骸と話している感じがして、目をくり抜いて覗き込んだら何にも入っていないんじゃないかという気すらする。つまらない将来設計とか、昇給、安定、結婚、子育て…そういうものを語られた瞬間、夏子は思いっきり見限る。夏子が好むのは平凡から遠く離れた世界、自分の知り得ないような深い場所を見つめる瞳だ。情熱が自分に向いていないことに喜びすら感じる。わたしもそういうところが少なからずあって、何か熱を…それもとびきり強く燃える炎をもって…向けているひとの瞳には、なんとも言いようのない色気があり魅力があり暴力的なまでに惹きつけられる。
自分の世界を構築させた人間には、独特の空気がある。胸の中にあるその巨大な世界は誰も踏み込むことができない秘密の城であり脳味噌や心臓よりも重要な核でもある。わたしは自分の内部に喜びをもって閉じ籠もることのできるひとを愛しているし、本来触れることのできない世界の片鱗を感じるときこれ以上ない幸せをおぼえる。
そんなふうに思えるひとはかなり少ないし、自分自身それほど情熱家かと言われるとそうでもない。「あたくし修道院へ入る」とふいに言ってしまえる夏子に憧れ焦がれる気持ちは当然と言えば当然のような気がする。


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