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2024年9月20日(金)

今日は朝の8時に起床。QUICPayに対応しているお店で支払おうとしているのに全然自分の携帯がQUICPayの画面にならず、めちゃくちゃ焦る夢を見て目覚める。起きてから一応QUICPayがちゃんと使えることを確認してリビングへ向かう。

生理のせいで腰が痛い。ご飯と洗い物はちゃんと済ませた。逆に生理のおかげで食欲が落ち着いた。よかった。

ご飯を食べながら少しだけTVerで番組を見たあとはやっぱり人の「生」が忌々しくて今日は無音で過ごしている。生きていることや明日があることに全く疑問を抱かず過ごすということが今難しい自分にとって、生命力に溢れているものは遠ざけたくなってしまう。

最近「孤独と寂しさ」についてよく考えている。
人間は誰も皆絶対に孤独と向き合わないと生きていけないと思っている。孤独であり、寂しいことを趣味や仕事で紛らわせていたり、自分では無い家族や友人、恋人などに向けて慈しむことで昇華させようとしたり、孤独を感じさせない方法は色々とあるけれど、どうしても孤独はついてまわってくる。それに気づいた時、どうしようもなく寂しくなり、孤独は大きな影を産む。
私は孤独に大きく振り回された結果、不安になり、落ち込み、死に至ることを一度は決意した。

原因は幼少期まで遡ることになるので割愛するとして。
鬱の期間は今もそうだけど本当に辛く、それこそ孤独な戦いを強いられる。薬を飲んでなんとかまろやかな気持ちにはなるものの、孤独は私の足首をグッと掴んだまま離れない。振り払おうにも動くことができず、結局「そのこと」について考えるしかなくなってしまう。
そうなるとどんな自己啓発本も、友人の優しい言葉も、なんの意味も持たなくなる。
とにかく、とらわれている何かについてああでもない、こうでもないと考えてしまう。
私の場合、いつだってその題材は「孤独であること」だ。

隣に人がいれば
自分に子供ができていれば
親がもう少しまともであれば

助かる問題では無い。
例えば環境が違ったとしても
孤独は孤独に変わりは無い。

そことどう折り合いをつけてうまくやっていくかが人生の岐路であり、自分だけの道を進むたった一つの大切な選択になってくるんだと思う。

そして私は少しずつ、本当の孤独に触れて目を逸らさずに向き合えるようになってきている。
だからといって油断すればまた、すぐに死を選択してしまうくらいにはぐらぐらで
そのくらい孤独が恐ろしく、言い方を変えると「無」であると思う。

他人が干渉できず、自分しかいない世界。
水平線が見えず、どこまでも伸びていく
影であり、光でもある答えのない胸がゾワゾワするような恐ろしい世界。

だからこそ、何も無いから目を背けるのは簡単で
そしてみんな、自分には何かがあるような顔をして過ごしたり、孤独では無い自分に縋りたくなって自己肯定感を高めよう!というのが流行ったり、何も無いねと言われると怒ったり、悔しがったり、人の上に立とうとしたりする。

結局は孤独なのにね。
そこからは絶対に逃げられないのにね。

私は今きっと、その自分が自分であり、その原点となる「孤独」という何も無い場所に花を咲かせようとしているのでは無いかと感じている。
今までの苦しみや悲しみ、怒り、喜び全てを洗い
「自分」以外の要因に対しては全て受止め
それでも孤独な自分に対して頭を撫でてあげられるような生き様でありたいと思う。

もちろん、どうしても外せない人付き合いについては差別はしないけど、より厳しく区別をして
その人といると自分で自分を傷つけてしまいそうな人とは関わらないようにしていくし、本当に少数、自分を信じてくれる人がいればそれで問題ないと思う。

「孤独」と「他人」とは全く別のジャンルのものだから。

まだない、40歳にして無の境地に少し触れる。

でもまだ突き詰めすぎてしまうかもしれない。
自分に厳しすぎる所が鬱になる原因だと言われたけど、どうしても譲れなくなって鬱酷くなって…
他人にはできるだけ迷惑をかけたくないですね。
と、言う理由だけのために今は生きている。

少なくともAmazonで七輪を七つ買ったあの日よりは生きたいと思えています。

ありがとう。

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