「報われなさ」の正義論 ー 交換の原理からの考察

「報われない」と感じるときはどのようなときだろうか。例えば、どれだけ仕事で成果を出しても上司に評価してもらえないとか、どれだけ子どもの将来を思って教育に投資しても、一向に成績が上がる気配がないとか、生活の様々な場面で誰しも「報われない」と感じることがあるだろう。「不条理感」と言い換えても良いかもしれない。

なぜ私たちは「報われなさ」あるいは「不条理感」を覚えるのだろうか。このことを考える上で、まずは「交換」という営為について考えたいと思う。

説明するまでもないが、「交換」とは、自分と相手のそれぞれの所有物を入れ替えることである。あなたが持っている1万円札と、相手が持っている千円札10枚とを交換する。この時ポイントになるのは、一般的に交換は「同価値」のモノ同士の入れ替えであるという点である。もし、あなたが持っている1万円と、相手が持っている千円札1枚を交換しようと言われたら、あなたは当然「不当だ」と感じるに違いない。なぜなら、1万円と千円では日本円としての価値に大きな差があるからだ。あなたは交換に際して、「私は1万円という価値を与えたのだから、あなたも1万円に相当する価値を差し出すべきである」と前提している。もちろん、上記のような不等式の交換自体は可能だ。価値が等しくなくとも、あなたが善意で相手に寄付するつもりなら、そのような交換は成立するだろう。

しかし、ここで問題にしたいのは、他者との交換を滞りなく成立させるのは、あくまで「与えた分だけ見返りがある」という「同価値のモノ同士の交換」を無意識に前提しているからこそなのであるという点である。別の言い方をすれば、同じ価値のモノを得られるはずだという「予見可能性」に交換の営みは支えられている。

さて、今言ったように、交換は同価値のモノ同士で行われるという前提(予見可能性)のもとにあると述べた。そしてこの交換は、モノ同士だけではなく、言語、感情、労働力など実体の無い事柄についても適用することができる。先の例で言えば、仕事でどれだけ頑張って成果を出したとしても、上司から評価をもらえないという「報われなさ」は、まさにこの「交換の原理」に則っていないと感じるからこそ生じる感情ではないだろうか。「もらえるはずのものがもらえない」という予見可能性からのズレである。

図式的ではあるが、例えばあなたが10頑張ったとして、実際に成果を出した。あなたは当然10の頑張りに対して、10かそれ以上の評価を要求する。あなたは「交換の原理」に従った適正な評価を求める。しかし、実際は5の評価しか得られなかった。あなたはその結果に不当さを感じた。「なぜ私は10頑張ったのに、5だけの評価しか得られないのか!」

だが、ここで考えたいのは、本当にあなたの仕事は「10」の成果をもたらしているのか?という点である。というのは、自らの仕事を主観的評価で「10」としているだけに過ぎない可能性があるからだ。客観的な評価を経由せず、主観的に「10」と評価しているのだとすれば、それは「この肉には1万円の価値がある!」と言い張って、腐った肉と相手の1万円の魚を交換しようとするのと同じことである。要するに価値を見誤っているのである。もしも客観的な評価基準に照らして、仕事の価値を算出した結果、10に値すると結論された場合は、その評価に対して正式に抗議する権利がある。だが、もしそうでないのだとしたら、残念ながら不当さを主張することはできない。「報われない」「不条理だ」と感じるのは単なる誤謬に過ぎない。

かなり画一的な例で示してきた。なるほど、たしかに職場など業務の実績に対する評価基準が制度化された環境であれば、まだこのような事例で説明できるのかもしれない。しかし、より情念的な場面、すなわち、親子関係や恋愛関係、友人関係、教育関係など、より親密でより直接的な人格関係が主軸の場面において、上記のように明確な数値で割り切って評価することは非常に困難である。私は10(程度と確信している)の慈しみを以て子どもに向き合ったとしても、その子が必ずしも親のギブに十全な形で応答するわけではない。むしろ、そのほとんどが期待を裏切ることになるのが普通ではないだろうか。

行為の実績を評価する普遍妥当的な評価基準が、どこかに存在するわけではないし、存在してはいけないと考えている。もしも行為者の実績評価基準なるものの存在を容認してしまったら、モノとモノ同士に適用される「交換の原理」が人格的関係の中に侵食してしまう。そうなれば、あらゆる関係性から寛容さや親切さ、慈しみ、恵み、配慮といった利他性が消え去ってしまうだろう。「利他性」は交換の原理には回収し尽くされない「余剰」である。いや、行為者の10と応答の5の差分(余剰)を「余剰」として扱わない、いわば「非対称性の原理」に貫かれていると言った方が適切かもしれない。

絶対的で普遍妥当な評価基準が存在しない現実世界において、つまり、絶対的な「正義」が存在しない世界の中では、むしろ「報われなさ」がデフォルトなのではないか。特に人格的な関係性においては、行為はあくまで主観的評価なのだから、その実績に対する客観的で正当な評価というのは残念ながら期待することはできない。ゆえに行為への他者からの評価は、常にすでに不当である。

だが、その不条理に絶望するのはあまり建設的ではない。「報われなさ」「不条理さ」に覆い尽くされて、交換の原理だけでは到底立ち行かないのが、実生活の現実なのだから。私たち誰しも、交換の原理に基づいて、行為への正当な評価や報酬を要求する利己的な側面を持っている。他方で、その原理に回収されない余剰としての利他性も持ち合わせている。この二面性のどちらかに偏りすぎることなく、バランスよく生きるための方法の模索は、今後も引き続き課題になっていくであろう。

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