1.範囲
藤岡訳『全体性と無限』p.357 - p.362
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
3 顔と理性
2.解釈
表出は顔の表出のことである。この表出は「知解可能な形態」、すなわち、全体は部分的な個の集合によって構成され、他方で、個はその集合である全体を構成する部分に還元される、そのような還元主義的な構造において現れるのではない。では一体どのようにして顔の表出は生起するのだろうか?
顔の表出は「知解可能な形態」であらわれるのではなく「自己確証」としてあらわれる。「自己確証」とは後述するように「自己による自己現前化」である。つまり、他の何物にも依拠せず、自己にのみその存在原理を有するような自己現前である。すると、顔の表出は「原初性そのもの」なのだから、あらゆる存在に先だってそれは「国王然とした至上権」をもって、私に対して「無条件的に命令を下す」。
この引用はデカルトを意識した箇所だと思われる。デカルトの方法的懐疑によれば、私の目の前にあるデスクや本なども「夢ではないかという可能性」を捨て切らない。そして、あらゆる事物を疑った果てに、疑っている私の存在を疑いえないという自己確信に至るのだが、その自己確信を支えているのは神の存在である。デカルトは「真理を探究するために」、この神(ここでは顔の表出)を無条件的に受け入れたのである(『省察』の第三省察を参照)。
デカルトにおける神と私との関係は「神秘的関係」であるといえる。神秘的関係とは「祈りが儀式や典礼と化すのと同じように言語が呪文と化し、対話者たちは自分のあずかり知らないところで始められた劇の役を演じる」ような関係である。
それに対してレヴィナスが提示しているのが、言語によって私と他者が取り結ばれる「倫理的関係」である。神秘的関係との比較でいえば、それは、一方の発話が他方を決定的に触発するような、そのような不可逆の関係性といえるのではないだろうか。このように倫理的関係には、神秘的関係と際立って対立することから「理性的性格」をもっている。
レヴィナスにとって「言語」とは、儀式や劇において形式化された「呪文」のようなものではなく、そのような儀式性=形式性を破壊する「断絶」であり「始まり」である。形式が断絶するその瞬間に、はじめて本当の生が始まるのである。これは『実存から実存者へ』のあるフレーズを想起させるが、それとの比較はまた別の機会に譲ろう。
顔と私の関係は言語的関係であり、けっして暴力にもとづく闘争的関係ではない。顔はまた私と他者を縛られず孤絶した状態、すなわち「多元性」を維持した「平和」状態をもたらす。ゆえに「非暴力の最たるもの」である。
ヘーゲルによれば、否定という他者を乗り越えることによって、自己の精神は絶対的精神にむかって弁証法的に上昇していくのであった。否定は自己を上昇させるための過程にすぎず、常に乗り越えられるべき否定である。その意味で、ヘーゲルにおける他者は、理性にとっての「スキャンダル」に相当するといえるだろう。だが、レヴィナスは違う。というのも、レヴィナスにとって他者は「理性的教え」だからだ。ヘーゲルにとって他者を否定されるべき否定であるのだが、レヴィナスにとって他者は、否定ではなく、ただただ受容されるべきものである。
こうして〈他人〉という名の「理性的教え」が、「私のうちになかったものを私のうちに導き入れる」。ここには、後期で前面化する「同のなかの他」の主体構造の原型が見て取れるように思われる。自己の内側に他者を抱くこと。しかし、他者は自己の同一性に包摂されないかたちで。このような「同のなかの他」的な主体構造が「暴力」を終結させ、〈理性〉を創設するという。
デカルト的無限を顔として読み替えて「倫理的本質」を示そうという試みがここではっきりと表明されている。いいかえれば、デカルトにおける倫理的可能性をレヴィナスは読み取ろうとしている。
また、顔との倫理的関係を「認識」に属する問題として扱い姿勢は、個人的にはたいへん興味深い。
3.まとめ
デカルトにおける無限概念は、その背景に神を想定している時点で「神秘的関係」にとどまっている。レヴィナスは無限を「顔」として読み替えることによって、神秘的関係から理性的関係、あるいは倫理的関係への更新を試みているといえる。もちろん、この関係を取り結ぶ鍵となるのは「言語」であるわけだが、この言語こそ、私と他者のあいだの関係に真の意味での「始まり」をもたらすのだ。