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おわりに


感情に、内側と外側があることについて。

わたしは自称「自分のことを受け入れている」「鈍感で、人に関心がない」人だった。
誰かの人生を生きた記憶はないのだから、人と比べてこうだと評価出来ないはずなのに、分類して、理解したつもりで、外側で言葉を使った。
その内側には、"恥ずかしいわたし"が隠れていた。


顔が恥ずかしかった。体も恥ずかしかった。何より、悲しいわたしが恥ずかしかった。喜ぶわたしも恥ずかしかった。驚くわたし、期待するわたし、恐れるわたし、怒るわたし、信頼するわたし、嫌悪するわたし、全部。
気づかれないように外側を作った。
不安を見つけては綺麗に直した。
壊れないように、少しずつ、何度も強化して、自分が誰なのかわからなくなっていた。

「恥ずかしくないよ。」

「それはあなたにわたしの内側が見えないから。」

そういう在り方で、自分を、周りの人を拒絶した。
苦しかった。
でも、作り上げた外側を分解していくことも苦しかった。
それでも、恥ずかしさに向き合い、涙にある豊かさに気づく生き方を選びたかった。

内側への帰り道、昔に撮られた家族写真を見つけた。

お母さんと白い衣に包まれたわたし、お兄ちゃんと隣り合ったわたし、弟と寝転んだわたし、お父さんにもたれかかったわたし。
そこから優しい声がした。

"思い出せない記憶には、愛された時間が、そうではなかった時間が、鮮明に、今も流れている。だから、思い出さなくても大丈夫だよ。"


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