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noteと私



noteに何を残そうとしているんだろう?
ふと疑問に浮かんで考えてみた。

一番はじめに書いたのは大好きな映画「アメリ」について。
片想いしていた人に相手にされなかった感情でやり切った記憶がある(苦笑)。

静かそうで女の子らしそうで正直で実は厳しいと言われがちな私って実はこうなんですと、パーソナルスペースに踏み込めない、踏み込まれる前に拒絶を繰り返していた状態で唯一出来る自己アピールの場として始めた。ような記憶。



お豆腐ハンバーグゥ定食



あれから1年と半年近く経つ。
たまに昔の記事を読み返すと、あ〜こんな風に書いちゃって〜と照れたり、ちょっと違うと思ったり元気を貰えたりする。
つまりあんまり覚えてない。

その時はその時の心を全力で写したはずなのに時が経つとその内面に入り込めなくなっていた。

そもそも本心を残したつもりでも、実際より激しかったり窮屈だったり健気だったり優しかったりするようにも見えるし。飽くまで今となっては。

1つだけ確かなのは、「私が書き記す」ではなく「直子について読んで知って貰う」を目的としている事だ。
どうしたって他者と関わりたくて関わろうとしている私がある事。

対面して関われば?と言われても直子はアメリだ。媒介が重要で必要なのだ。

こうだと決めるな。本当は枠組みや限界は必要ない。だから対面も媒介も関係ない。
対面で感情的に繋がれる時もあれば、媒介を掛けて感情にフィルターを通したからこそ伝わる時もある。その時出来ることをその時なりの形でやり切ればいいしやり切れなくても落ちながら生きていればいい。

誰も買わないだろうと考えた価格の記事を2人の方が購入してくれた時は、嬉しくて笑いが止まらなかったな。
今度会ったら直接お礼を伝えよう。



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