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六甲

20代の頃の僕は、自分自身の未来像を描けず悩んでいた。悩んだ時によく六甲を歩いた。特に西六甲を、僕は好んだ。須磨浦公園から、尾根伝いに摩耶山を目指す。神戸の街と、山が近い六甲。その尾根伝いを歩いていると、まるで神戸上空を飛んでいるような錯覚を覚えることがあった。摩耶山と須磨浦公園の中間あたりにある高取山、その西側に上級者向けの登山路があった。草木がほとんど生えていないガレ場を一直線に登っていくルートは、まるで天に昇っていくような錯覚を覚えた。このガレ場で休憩しながら、ぼんやりと将来のことを考える…そんな孤独な時期が、僕にもあった。

結婚し、子供が生まれ、将来を憂う暇などなくなった今、あの頃の若者ともう一度話したいな、と思うようになった。何年か前に、大手ビールメーカーのCMで、若者が未来に通じるエレベーターで、人生の先輩たちと対面するようなのがあったと思うが、あんなカッコいい先輩ではなく、ヨレヨレになった中年男に向き合った時に、あの若者はおそらく失望するだろう。だって、自分自身の未来だから。そこで、僕はどんな言葉を用意しないといけないのだろうか?そんなことをとめどなく考えたりする。

若者は、自分が生きた証を遺したい、と常に思っていた。彼が思い描いていた「生きた証」というのは、例えばイチロー選手の最多安打記録であったり、後世に読み継がれるベストセラー小説だったり、そういった、広く世界に自分の存在を知らしめる華々しいものだったように思う。疲れ切った中年男を見た彼は、「自分の一生」という映画の結末が、あまりにも惨めなバッドエンドであることに、ただただ落胆すると思う。

芯のない人生。自分の息子や娘のような若者たちに混じって、慣れない仕事に右往左往する男。一日の仕事が終わり、疲れ果てて机に突っ伏す男の背中を眺めて、天を仰ぎため息を吐く若者。その時だった。3人の子供たちが男に駆け寄り、頭や背中、腕などを交代でマッサージし始める。さらに手の空いた子供が、ジュースやお菓子を持ってきて、まるで弱った犬を介護するように「大丈夫か!これ食べて元気出しぃ」と励ます。

子どもたちの介抱を受けて、むくりと起き上がる男。おもむろに背後を振り返る。若者と目が合う。男はニンマリと笑って、こう言うだろう。「ええか、本当によくできた映画の結末は、想像できんもんや。誰もがイメージできるハッピーエンドではおもろないやろ。人生何があるかわからへんから、おもろいねん。兄ちゃんの未来も、最後までどうなるかわからへん。だから、命が尽きるその日まで、大逆転があると信じて生きてくんやで!
若者へのメッセージの最後は、男自身へのメッセージでもある。そう、人生は、最後の最後まで、何があるかわからないのだから。

落ち着いたら、また一度、六甲を歩いてみようと思う、息子と一緒に。


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