未来への贈り物

 自分の生きた証ってなんだろう?僕の場合、10年かけて作ったカバーホイール、そしてもう一つが、20年前に自費出版した「桜町」という本になる。高校生の頃から文章を書くのが好きだった僕が、就職浪人までして2年続けて挑戦した記者という夢は、結局叶うことがなかった。何故記者になりたかったかといえば、自分の文章でなにかを変えることができるかもしれないし、何よりも、何かしらの形でそれを後世に残すことができると思ったからだ。

 今の学生さんに人気の職種がなにかはよく知らないけれど、僕らの頃は、マスコミの編集記者職というのは人気があり、非常に狭き門だった。読売、朝日、毎日、産経、そしてスポーツ紙から地方紙まで、とにかく応募しまくった。マスコミの試験というのは、だいたい書類選考→筆記試験→一次面接→2次面接→最終面接という感じだったと記憶している。筆記試験では、例えば「現在の内閣閣僚の名前は?」なんていう時事問題が出てくるのだが、面倒くさがりの僕はまったく勉強せず、恥ずかしい話だが、当時の内閣総理大臣の名前すら書けなかった。この時点で普通ならアウトだけど、全国紙の一社は2年続けて筆記試験を通過し、さらには2次面接まで進むことができた。何故か?

 筆記試験は2つに大別されて、一つは時事問題や難しい漢字などの一般常識問題と、もう一つが小論文だった。この小論文、お題は当然シークレット。よーいドンでお題を与えられ、1時間で1000文字の論文にしないといけない。ちなみに、字数オーバーはもちろんアウトで、だいたい990字~1000字で完成させるのがベターとされた。あの頃の僕は、お題を見たら、数分で全体の構成を考え、995文字前後の文章に余裕をもって仕上げることができた。だから、僕はあえて時事問題を勉強せず、文章力で採用にこぎつける!なんて息巻く、生意気な学生だった。

 結局、2年続けて、某大手新聞社の2次面接で敗退したけれど、2年目の面接直後に、トイレでばったりと面接官の一人と出会った。大阪本社のデスクというその男性とは、2年続けて2次面接で対面した。2次面接は、たしか5名の面接官と学生1人という構図だったけれど、その面接官はともかく厳しかった。他の面接官の好意的な問いかけも押しつぶす圧迫面接に、ちょっと苦々しくも感じていた。ところが、トイレでばったりと会ったその面接官は、僕の顔をまじまじと見て「君、おそろしく文章が上手いな。これからどんな道に進むかしらんけれど、文章は書き続けろよ」と言ってくれた。

 今となっては、若者を励ますためのリップサービスと思うけれど、ジンと胸が熱くなったのを覚えている。そして、今年も最終面接に進めなかったとその瞬間に悟った。だから、結果を待たずに、次の日から一般企業への就職活動に切り替えた。社会人になってからも、あの面接官の言葉がずっと心に刻まれていて、僕は何かしらの形で、自分の文章をカタチとして遺したいと考えるようになった。そしていつしか小説を書くようになっていた。

 まだ若かった僕の「書く」というエネルギーは凄まじく、原稿用紙100枚くらいはあっという間に書けた。そして若さ故に、「自分は才能がある」と過信していた。書き始めてすぐに「桜町」という本を自費出版した。ISBN(書籍の国際規格コード)も付いてるし、これも一つの実績。文学賞を目指すにも有利になるのでは?という甘い考えもあった。当然のごとくほとんど売れなかったけれど、それでも、自分の文章をカタチにできたことで、少し肩の力が抜けたのを覚えている。

 しかし30代になり、結婚し、子供が生まれ、何かを後世に残したい!という熱い想いは、子供の成長とともにだんだん冷めていった。そしてある時、冷めた状態で桜町を読み返してみて、その構成の粗さ、そして何よりも文章の稚拙さに愕然とし、棚の奥に想い出と一緒に封印してしまった。

あれから20年、ひょんなことから、noteで文章を再び書き始めた。ひどい話で、文章の書き出しは一字下げるということすら忘れていた。「話言葉はかぎかっこやったよな~」なんてググりながら、コツコツと文章を紡いでいるうちに、あの頃の懐かしい気持ちが湧きあがってきた。そして、昔よりも簡単に本を出版できることを知った。

 ちょうどそんな時、小学生の長女が、地元の図書館で僕の本を発見した。「すごいやん!」と興奮気味に僕を見る長女。イケイケどんどんだった頃の僕なら、どや顔で棚の奥から桜町を引っ張りだしていたと思うけれど、その時は、苦虫をかみつぶしたような顔になっていたと思う。そして思った、(生きているうちに、娘が友達に自慢できるような本をカタチにしたい)と。

 この一週間、家内の冷たい視線を感じながらも、仕事そっちのけで、桜町を一から書きなおしていた。当初は、表現等を修正すれば…と考えていたが、とてもじゃないが、修正で済むようなレベルではなかった。結局、ほぼ一から書きなおすことになった。ただ一点、(あっ、この時の俺、このシーンに気持ち込めてたよなぁ)と記憶している箇所が何ヵ所かあって、そこの部分は、形を変えても盛り込むようにした。

 タイトルは「桜町2021」。表題作の「桜町」、「兵庫県南部晴れ時々天使」、「トマト」の掌編小説3篇をまとめたものだけど、広く大衆に向けてじゃなく、長女のために書いた。だから、書き上げた時も、最初に長女に読んでもらった。小学生にはグロいシーンもあるけれど、じっくりと読んで、ジンと涙が出るような感想も述べてくれた。一部、(ああ、それは大人にならないとわからないよねぇ)と思うこともあったけれど、いつか僕がいなくなった時にもう一度読んでもらうお楽しみが出来たので、それもまたよし。

 20年前に僕が書いた桜町を、20年後に一人の少女が見つけてくれた。少女は、昔物書きを志したものの、今は生きるということに目的を見いだせなくなったくたびれた中年男に、もう一度進みだす勇気を与えた。あの時の僕が残した、20年後の僕への贈り物という本の存在を知らせることで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?