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幻想の旅路〜改めて思う自分を知ることの大切さ

この文章は、スピリチュアルな体験や理解が成熟する過程での誤解や洞察について述べています。主要なポイントは次のように要約できます

🔸スピリチュアルな体験は、真理を知ったり、覚醒したりしたときに人生がポジティブでそれこそが完璧であるという誤解がある。

🔸しかし、これは強引な解釈であり、実際には人生には嫌なこともあるし、ポジティブだけの完璧な状態は存在しない。

🔸自己否定や被害者意識などの負の感情は、過去の経験や社会的比較から生じることがあり、それらを一旦は認識することが重要である。

🔸自己否定や自己卑下は、過去の経験の昇華のためのきっかけとして捉えることができる。

🔸インナーチャイルドなどの概念は、過去の経験を過度に強調することにつながる場合があり、そのような概念に過度に執着することは避けるべきである。

🔸自己のアイデンティティや感情と真剣に向き合うことが、スピリチュアルな成長や理解の重要な要素でもある。


目次


プロローグ: 夢の迷路

スピリチュアルな世界に浸る中で、真理を見失いがちな瞬間がある。覚醒や宇宙の法則による人生の好転など、理想的なイメージが現実と異なることに気付いていく。

第一章: 欺瞞の幕

誤解はエゴの幻想に過ぎないことを悟る。スピリチュアルな経験やエゴの仕組むトリックに振り回されながら、真実を見失いがちな日々。

第二章: 内なる沼

無自覚のまま、理想化された世界への固執によって、現実から遠ざかる。自己啓発の過程で、自己の期待に沼ることを自覚する。

第三章: 真実の醒め

真理は過去の記憶を昇華させる。嫌なことを受け入れ、それが成長や変化の機会であることに気付く。

第四章: 自己の認識

自己否定や自己卑下は過去の傷を癒すための召喚である。その召喚に応じ、過去の記憶を受け入れ、昇華するプロセスに入る。

第五章: 価値観の再構築

思考の癖に囚われることなく、自己のアイデンティティを見つめ直す。比較や分離の世界から抜け出し、真の自己を探求する。

結末: 混沌の解明

世界の混迷の中で、自己を見つめ直す旅は続く。心理学や脳科学、量子力学などの多様な観点を踏まえつつ、真の自己との対話を深めていく。

エピローグ: 覚醒の光

迷いながらも、真実の光は常にそばにある。自己の探求は終わりなき旅路であり、内なる真理を追求し続けることが、真の覚醒への道である。




  1. 「スピリチュアルな旅路で嫌なことは必要不可欠?」

  2. 「真理の探求者への警鐘:成し遂げるから完璧な人生であるは幻想?」

  3. 「自己否定から昇華へ:過去の経験を嫌悪しないから学ぶ」

  4. 「インナーチャイルドの虚実:過去を過度に強調する危険性」

  5. 「真のスピリチュアル成長は自己の本質への挑戦」


さてさて、体調不良が起きてきました。

スピリチュアルにハマっていた時の誤解があります。それは、真理を知ったらとか、例えば覚醒したからとか、宇宙の法則で人生好転したからとか、、、そしたら体調も優れて、元気いっぱいですこぶる健康で、興味の対象が同じ友人に囲まれて、好きな時に好きなことしてるから、嫌なことも起きないんだ!、、、と思っていたもんです。

だけど、それは強行突破的な乱暴な解釈です。エゴ領域の解釈でしかなかったな、と今は思います。私の記事に久しぶりのご出演になる【エゴ】様ですが、エゴ様の仕掛けてくるトリックは、楽しくて刺激的で、ある種癖になるんですよね。

気づかないうちに、しれ〜〜っと、、、
こうあるべきだ、の世界観に沼ってますからね。自覚ない内にこうあるべきだと思ってますから…怖いもんです。内観してたって知らぬ間に沼ってます。

真理を知った→
知った=思い出したとしても

例えば覚醒した→
した=思い出したとしても

宇宙の法則で
人生好転した→
した=思い出したとしても

体調崩すこともあれば、興味の対象が同じ友人に出逢わないこともあれば、好きな時に好きなことができないこともあれば、嫌だなあと思うこともありますよ。

なんで、そんなことに気づかなかったんだろ…と、はっ!!としたもんです。

嫌だなぁ、と思うことは良いことです。ほんとに。嫌だなぁと思えるのは、こういうのがいいのになぁがあるわけで、こういうのがいい!にしていけるプロセスがあるわけですから。それは楽しいことです。(そのことをエイブラハムやバシャールはヴォルテックスとコントラスト、と表現してたんですね。)

私は感情が一直線なので、(下にある図解のように)嫌だよ!全然うまくいってない!って思ったら、一直線にうまくいかない私を演るので、そんな時は【いっぺんに人生変えたい!変われ!】って呪いのように執念持っていた時もありました。

しかしそれはエゴ様がのりうってる私という存在の主張でした。要らない主張なんですよね。

うまくいってない、って何基準でうまくいってない…って嘆くんでしょうね?←←←考察するに、他人との比較、からくる自己卑下があるからなんじゃないかな?と思いました。比較自体いいんですわ。でも自意識過剰や被害者意識が根底にあると、比較的して落ち込むっていうパターンをやって、さらに被害者意識を強めるのです。私を分析するとそうなりました。

被害者意識っていうのは、掃除しても掃除してもなかなか取れないあれと同じです。バスルームのドアの白いカリカリのやつみたいなもんで、取れませんです。取れた!と思ったけどまだ残ってて、ああ、もうめんどくさいからもうみなかったことにする、もういいや〜って、諦めるやつです笑

そしてまた、やるか!って重い腰をあげてカリカリを頑張って落とす…っていう作業と似てて。

それからは、『私には被害者意識あるんだな』、と自覚しました。この自覚できない内は何度も同じことくりかえしますよね。ある程度の人生ステージの段階までは自覚って大事だなって思います。例えば何か心理系やスピリチュアル系を学び始めたとき、真理を知りたがったとき、現実創造中に現実にどっぷり浸かってしまったとき、人生を変えたいと切望するとき、そんなときは人生のステージがシフトするような感じがします。

それで、自覚したあとは、自己否定と自己卑下の癖はやめよ!って否定する意識の観察に、力が入りました。自覚したからやめよ!って思えました。

自覚しないうちは自己否定とか自己卑下とか、被害者意識という言葉をスルーします。そういう言葉を見たくもないし、反応しないようにポーカーフェイス気取ってますよ。

その観察はあってもいいと思いますよ。
  

じゃあ自覚するときに、
自己否定をするにはそれ相応の理由があったのは確かにそうなんですが、それをいつまでも抱えててもしょうがないんだよね、、、その理由にしがみついててもしょうがないんだよね、、、ってことに真に気づくと、それ相応の理由というものが、まるで走馬灯のように、または年末に買い物しまくって長い長いレシートになったように、ずら〜〜と並べられたその記憶を、ただの情報として観ることができ、観た途端、それらは昇華していきます。嫌な顔した記憶の情報が消えていくの。

別の言い方だと、自己否定や自己卑下をするのは、昇華されるためのきっかけという召喚であります。過去の重苦しい記憶情報を、「ちょっと来て!」と呼び寄せて、寄り添い話を聞いて、「よし!よくわかった!!」と認める。別の領域に移動するみたいな、
この一連のフローは、昇華を促します。

だからって過去情報にわざわざインナーチャイルドという名称をくっつけて、たいそうな物に仕立て上げたりはしません。

インナーチャイルド、って名付けた人天才ですよね。たいそうなものに感じますから。だからスピリチュアルにハマった人は、インナーチャイルドを癒そう!ってこぞって過去癒やしをやり出します。すると過去を強化します。私もそれに乗っかった人なので笑、それはそれは苦しくも楽しかったですが。途中でインナーチャイルドっているって物質化してない?とか、インナーチャイルドって思うたび、記憶を強固にしてない?、インナーチャイルドって一体いくつあるの?これ、キリがないよね???って気づいてやめました。

インナーチャイルドがまるで存在してるかのように感じさせることで、過去の記憶情報がいい加減に捏造されたものではなくて、れっきとした真実の出来事だったんだ!と、強烈に思考に刻まれます。それにより、より思考は新たなストーリーを作り出します。これはまさに、エゴ様の暴走とも言えません?

そもそも、インナーチャイルドなんていませんから。ええ、、、

あ、でも、居てもいいんですよ。どっちでもいい。

そんなことを幾度も経験した私という存在は、エゴ様を暴走させながら、嫌だぁと感じるにしても、嫌だぁの側面から、素早く去るというスキル=なんで嫌だって思ったの?と言う質問で、本当はこうしたかったんだなあ、こうして欲しかったんだな、これが良かったんだな、という嫌ではないことの本質を見つける、を身につけました。

生きながらに嫌なことがなくなることが、覚醒した人ではなくて、達観した人というわけではなくて、流行ってた超意識や神の人になるのではなくて、5次元意識とか6次元意識というのではなくて、一瞥体験したことをYouTubeにアップすることではなくて

嫌なこと、の嫌ではなき側面を見つけられることが、存在のノンデュアリテイなのではないかなと思います。

そもそも、大前提として、①現実創造に長けた人と、②幻想的なワンネスを事業化する人と、③現実創造にもワンネスにもすでに興味がなくて、そこから離れた人と、三種類に分かれるのかなぁと思います。とは言ってもすべて【概念】ですからね、どれもこれも曖昧なんですわ。

だから、思考の癖で考え始めると、(思考が起点だと)あんたは嘘を言ってるとか、この人は本物であの人は偽物という、分離の世界にいざなわれます。。。これこそが今日一番お伝えしたかったことで、つまりどれが正しいの?こうしたらいいですか?これなら大丈夫ですか?手っ取り早く正解だけ知りたいんです、という質問は、まだ自分自身を知らない時の初めに出る疑問なので、本気で一回自分のアイデンティティ壊すことをしたら良いよね〜ということです。

抑圧した感情は、怒りとか悲しみばかりではありません。喜びだって、楽しいワクワクだって抑圧してきたとおもいます。それを放ってるってことは、自分のこと知りもしないで、うっとおしい自分を切り離して、非物質的な存在=高次元の内なる存在=ハイヤーセルフとか語ることで神格化したふりをしてるだけか、またはそれとは別格の非二元を知ることはないかな、と思います。

自分を好きでも嫌いでも自分というアイデンティティをこれまで持ち続けてきたんだから、それは一回真剣に向き合わないと、なんか失礼かなぁって思います。とはいえその自分というアイデンティティも曖昧ですからね。

世界全体がなんかごった煮みたいな状況。心理学も脳科学も量子力学も精神論も全部混ぜてスピリチュアルって語ってるし、それのスピリチュアルを混ぜてノンデュアリテイを語ってるし。確かにどれが本当?って聞きたくなりますよね。どうしたらいいの?って迷い猫になりますよね。

じゃあそういうものを観察し、選択する軸は、さてどうやって作りました?



さて、今日も長文を読んでいただきありがとうございました😊

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