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2020大阪大学(文以外)/国語/第二問/解答解説

【2020大阪大学(文以外)/国語/第二問/解答解説】

〈本文理解〉
出典は佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』(1993)。
①段落。「脱近代」とか「近代の終わり」といった言葉がさかんに語られている。…
②段落。それにしても「脱近代」というのはおもしろい言葉だ。…自分たちの社会が崩壊するのを目撃した古代人や中世人にとって、それは端的に「世界の終わり」、そこに「脱古代」や「脱中世」、あるいは「古代の終焉」や「中世の終焉」を発見した人間はいない。
③段落。そもそも「脱近代」とは一体何なのだろうか。そこでいわれているのは結局「近代ではない」以上の何ものでもない。しかし、およそ「近代ではない」という言い方が意味をもちうるとすれば、それはその空間が語られている空間が実は近代だからだ。脱近代とはいまだ存在しない何かを、それに充当されるべき未来の何かを、現在において待っている言葉なのである。
④段落。脱近代というのはまぎれもなく近代社会の言葉である。いやむしろ、「きわめて近代的な概念だとさえいえる」(傍線部(1))。…「脱古代」や「脱中世」がなく、ただ近代だけが「脱近代」を語るとすれば、それ自体が近代社会にとって決定的な何かを物語っている。
⑤段落。脱近代という言葉は近代の否定をそのうちにふくむ。近代はある種の不安定さを、その内部の諸制度をたえず解体ー再編成していくという運動性を、自身のなかに組み込んで成立している社会なのである。近代社会でたえず「近代」が問いなおされ、「脱近代」が意識されるのも、そのためである。近代社会はいわば近代社会であるがゆえに、自らのうちに「脱近代」への志向をかきたてつづける。「近代/脱近代」という形で言説を生産すること自体、我々が近代社会に生きているまごうことなき証しにほかならない。

⑥段落。「近代/脱近代」という言説には、さらに、もう一つの側面がある。(日本における五回の「近代」の大流行について)。
⑦段落。日本における「近代/脱近代」という言説の運動にはもう一つ、日本という後発近代化固有のモメントが働いている。それは一言でいえば、日本近代と西欧社会との距離の意識である。自分たちは十分に近代社会になりおおせたのだろうか。西欧とは異なる土壌に近代社会を接ぎ木する苦しい作業は終わったのか。ーー「近代」が人々の口の端にのぼる時、そこにはつねにこうした問いかけがある。「脱近代」という言葉には、その問いに肯んじたいという、日本人の切ない願いがこめられているのである。
⑧段落。しかし、その願望はこれまでのところ、ことごとくうちくだかれてきた。いったんは構築した社会のシステム、西欧と肩をならべあるいは凌駕すると自負していたシステムが機能不全におちいるたびに、日本は当時の西欧近代の諸制度を新たに輸入して、自らを再編成することをしいられた。そのつど日本人は「近代」を再発見させられ、自分が模倣しようとした西欧近代がいかに巨大なものか、あらためて思い知らされてきたのである。

⑨段落。日本における「近代/脱近代」の言説は今もなお、「この二つのモメント」(傍線部(2))によって支配されている。我々は現在何度目かの「近代」の発見をしつつある。それは一面では戦後の高度経済成長期に構築された社会のシステムがいろんな点で機能障害を起こしている、その反映である。それをいかに解決するかという問題に直面して、我々はまた西欧近代社会を参照する必要に迫られている。
⑩段落。その一方で、人工/自然、社会/環境といった19世紀西欧で確立された諸形象が、今、全世界的な規模でゆらいでいる。西欧自身もふくめ、近代社会があるフェイズから別のフェイズへ移行しつつある。そのなかで、これまで自明とされてきた社会の基本的な形式が問い直され、新たな近代の形態が模索されている。
11段落。日本における「近代/脱近代」の言説を支配するこの二重のモメント。…
12段落。我々日本人にとって「近代」とはまさしく、この二重の力学のなかで生きることであった。この二重の力学は我々の生をどうしようもなくかたちづくり、またひきさきつづけている。日本近代を生きるとは、この二重の力学のなかで己れを位置付けることなのである。

13段落。日本において近代を問うことは、ある「たやすさ」をもっている。我々の住むこの日本近代社会は、西欧近代に対してあるズレをもって成立している。日本近代社会は西欧近代社会といくつかの点で決定的にちがう。そのズレが我々に西欧近代を「たやすく」語る視座を与えてきた。ズレがあるゆえに相対化しやすく、かつ、それが断絶ではなくズレであるがゆえに理解しやすい。
14段落。それはちょうど、ある星から他の星の速度を測っているにひとしい。…日本からみて西欧近代の独自の運動が見えるのは、全く自然なことにすぎない。
15段落。しかし、その自然さに安住しているかぎり、とらえられないものがある。それは日本近代という星自身の運動であり、そして、それをふくむ近代という、西欧や日本のみならず、地球上のあらゆる社会に回帰不能な変貌をしいている巨大な重力である。
16段落。それらをとらえるためには、何よりもまず、我々自身が住むこの日本近代社会の重力圏から、我が身をひきはがさなければならない。そうしてはじめて、日本近代とそれをつつみこむ近代そのものの運動をとらえることができる。マックス・ウェーバーが、そしてミシェル・フーコーが西欧社会に対してなした思考とは、本来そうした作業だったはずである。
17段落。彼らの西欧社会の分析は、我々にとってもごく自然な説得力をもっている。けれども、「その自然さこそ本当は最も危険なのである」(傍線部(3))。…ウェーバーやフーコーが西欧社会をとらえようとすることと、我々がそれを読んで西欧社会を理解することは、根本的に異なる。彼らがその孤独な力業によってつかんだ西欧社会への相対性を、我々はたんに我々が日本という別の社会に住んでいるという事実によって、たやすく得てしまう。
18段落。そうした事実性に安住しているかぎり、我々は本当は何もこの手ににぎることはできない。そのたやすさに安住しているかぎり、本当の意味で日本近代を問うたことにはならないのである。

〈設問解説〉
問一 (漢字)
(a)崩壊 (b)土壌 (c)模倣 (d)衝撃

問二「きわめて近代的な概念だとさえいえる」(傍線部(1))とあるが、古代や中世との比較のうえで、なぜ脱近代という言葉が近代的な概念であるといえるのか。90字から110字で説明しなさい。

理由説明問題。「古代や中世との比較のうえで」とあるが、あくまで「脱近代という言葉が近代的な概念である」という理由を説明する上で有効になるよう、古代や中世を近代と対比する。まず、⑤段落「脱近代と言う言葉は近代の否定をそのうちにふくむ」(P)に着目する。これが近代と古代・中世を分ける時の前提となるからだ。Pに対して、近代という時代は「その内部の諸制度をたえず解体(=否定)一再編成していくという運動性を、自身のなかに組み込んで成立している」(⑤)(A))。よって、近代においては脱近代、つまり「いまだ存在しない何かを、それに充当されるべき未来の何かを、現在において待っている」(④)(B))態度が成り立つ。一方で、近代以前の古代や中世においては、自己の否定はそのまま「終わり」を意味し(②)、それを古代や中世の「現在」において志向することは原理上ありえない(C))。よって「脱近代」というのは近代特有の概念だと言える。
以上を再構成して、「「脱」とは自己の否定である(P)→古代や中世の内でそれが志向されることはない(C)→一方、近代は諸制度の解体による再編という運動性を特徴とする(A)→よって、近代は現状を「脱」して充当されるべきものが実現するのを現在=近代のまま待つという態度が成り立つ(B)(→よって、脱近代は近代的な概念)」という流れでまとめる。

〈GV解答例〉
「脱」とは自己の否定であり、古代や中世の内でそれが志向されることはないが、諸制度の解体による再編という運動性を特徴とする近代では、現状を「脱」して充当されるべきものが実現するのを、近代のまま待つという態度が成り立つから。(110)

〈参考 S台解答例〉
古代や中世では、社会の終わりは端的に世界の終わりを意味していたが、脱近代という言葉は、いまだ存在しない、充当されるべき未来の何かを待っている言葉であるだけでなく、近代社会の誕生とともに誕生した概念であるから。(104)

〈参考 K塾解答例〉
古代や中世においては社会の崩壊が世界の終焉を意味するゆえに、「脱古代」「脱中世」という概念は存在しえなかったが、「脱近代」は、自己否定を駆動力として未来を志向する近代社会に固有の運動性を表す言葉として生まれたものだから。(110)

〈参考 Yゼミ解答例〉
古代や中世では、社会の崩壊はそのまま世界の終わりを意味するだけであったが、近代社会は、内部の諸制度の解体・再編成を絶えず行うという運動性を自身の中に組み込んで成立しているため、脱近代という自己否定的視点が可能になるから。(110)

問三「この二つのモメント」(傍線部(2))とあるが、この二つはそれぞれどのようなものであり、またこの二つはお互いどのような関係にあるのか。90字から110字で説明しなさい。

内容説明問題。二つの「範囲」をどこに定めるのかが難しい。傍線部を一文で把握したとき、「日本における「近代/脱近代」の言説は今もなお/二つのモメント(傍線部)/によって支配されている」となるから、ここでの二つのモメント(A/B)とは、「近代/脱近代」の言説(G)をリードする力(契機)のことである(A→G/B→G)。具体的には⑥段落の一文目「「近代/脱近代」という言説には、さらにもう一つの側面がある」の前後、②〜⑤段落までのブロックで一つ目のモメント(A)、⑥〜⑧段落までのブロックで二つ目のモメント(B)が説明されている。その2ブロックを承け、傍線部で「二つのモメント」(⑨冒頭)とするのである。加えて、傍線部後の記述も、⑨段落がBと対応、⑩段落がAと対応しており、さらに11、12の両段落でABが合流し、設問のもう一つの要求である両者の関係を記述している部分になっている。
分かりやすい方から、Bは⑦段落「日本における「近代/脱近代」という言説の運動にはもう一つ、日本という後発近代化社会固有のモメントが働いている(B→G)。一言でいえば、日本近代と西欧近代との距離の意識である」を参照する。ここからB「日本近代と西欧近代との距離の意識(B1)/という後発近代化固有の契機(B2)」となるが、B1についてはザックリとした説明なので、⑦⑧段落の内容(西欧の模倣→「克服」→不備→再び模倣)から具体化する。いったんAに移り、それとの対照でBの説明を最終的に決める。
Aは、⑤段落「近代社会でたえず「近代」が問いなおされ、「脱近代」が意識されるのも、そのためである」の「その」に相当する(A→「近代/脱近代」の言説(G))。「その」の指す内容は、前文「近代はある種の不安定さを、その内部の諸制度をたえず解体ー再編成していくという運動性を、自身のなかに組み込んで成立している社会なのである」(A1)である。また、⑩段落「これまで自明とされてきた社会の基本的形式が問い直され、新たな近代の形態が模索されている(→それが「近代/脱近代」という形で意識されている(G))」もA1と重なり、表現として参照できる。以上よりAは「近代を解体(否定)しながら更なる近代化を進めるという/近代一般の契機(A2)」となる。A2は、先のB2との対照で補った。折り返しBは、Aに対応させる形で「西欧近代を規範とし自己を否定しながら西欧化を進めるという後発近代固有の契機」とした。
それではAとB両者の関係はどうなるか。11段落「西欧近代に追いつき追い越そうとする日本近代の運動が作り出す力学(B)と、それをさらにふくみこんで展開する近代という巨大な運動の力学(A)」より、「AはBを含む関係」であると言える。また、12段落「この二重の力学は我々の生活をどうしようもなくかたちづくり、またひきさきつづけている」より「AとBはときに矛盾する関係」であると言える。メカニズムの波長が異なるわけだから当然であろう。この2点を解答の締めに置く。

〈GV解答例〉
二つは、近代を否定しながら更なる近代化を進めるという近代一般の契機と、西欧近代を規範とし自己を否定しながら西欧化を進めるという後発近代固有の契機だが、前者は後者の運動を含みながら展開し、ときに摩擦を引き起こす関係にある。(110)

〈参考 S台解答例〉
二つのモメントとは、近代社会がその内部に持つ自らへの否定と、日本近代と西欧社会との距離の意識であり、それらは日本近代社会とそこで生きる人間たちに影響を与える二重の力学を象徴するものであり、前者が後者を含みこむ関係にある。(110)

〈参考 K塾解答例〉
西欧近代を参照項として自らを再編成する後発近代社会である日本に固有の力学と、それを包摂する、絶えざる解体一再編成により自己更新を図る近代に通有の巨大な力学とが、矛盾を孕みつつ相即的に日本社会を成立させているという関係。(109)

〈参考 Yゼミ解答例〉
明治以後の日本社会のシステムが、機能障害を起こすたびに西欧近代社会を参照せざるをえないことと、これまで自明とされてきた近代社会のあり方が自己否定的に問い直されている状況を指しており、後者は前者を包含する関係となっている。(110)

問四「その自然さこそ本当は最も危険なのである」(傍線部(3))とあるが、それはどういうことか。日本人が日本近代社会を問うときには、何が問題となり、それゆえにどのような姿勢が求められるのか。比喩的な表現を避けて90字から110字で説明しなさい。

内容説明問題(主旨)。「その自然さ」の問題性(A)とそれへ対処する姿勢(B)を指摘する。解答構文は「Aのため、Bの姿勢が求められる」となる。傍線部は17段落にあるが、Aについての説明は、13段落「日本近代社会は西欧近代社会といくつかの点で決定的にちがう。そのズレが我々に西欧近代を「たやすく」語る視座を与えてきた。ズレがあるゆえに相対化しやすく、かつ、それが断絶ではなくズレであるがゆえに理解しやすい」と15段落「しかし、その自然さに安住しているかぎり、とらえられないものがある。それは日本近代という星自身の運動であり(A1)、そして、それをふくむ近代という、西欧や日本のみならず、地球上のあらゆる社会に回帰不能な変貌をしいている巨大な重力である(A2)」を参照して、「日本人は西欧近代との距離感を所与のものとして/西欧近代を相対化し理解するが/それゆえ日本近代の固有の運動と(A1)/近代自体の一般的運動を(A2)/見落とす危険がある」とまとめた。
Bについての説明は、16段落「それら(A1A2)をとらえるためには、何よりもまず、我々自身が住むこの日本近代社会の重力圏から、我が身をひきはがさなければならない」などを参照して、「日本近代の自明性を問い直し/自己を厳格に対象化する姿勢が求められる」とまとめた。「自然さ」=「たやすさ」の逆として「厳格に」という表現を配した。

〈GV解答例〉
日本人は、西欧近代との距離感を所与のものとして西欧近代を相対化し理解するが、それゆえ日本近代に固有の運動と近代自体の一般的運動を見落とす危険があるため、日本近代の自明性を問い直し、自己を厳格に対象化する姿勢が求められる。(110)

〈参考 S台解答例〉
近代西欧と日本近代とが異なる歴史と環境の下で成立しているため、日本人は西欧近代の独自の運動をたやすく理解できるが、それでは日本近代社会とそれを含む近代を捉えられないので、日本近代社会を対象化し相対化する姿勢が求められる。(110)

〈参考 K塾解答例〉
近代全体が抱える諸問題を克服するためにも、西欧との差異ゆえに容易になしうる西欧近代の相対化に安住することなく、日本近代それ自体を相対化するという困難を担いつつ、世界的に変貌を強いている近代の総体を捉える姿勢が求められる。(110)

〈参考 Yゼミ解答例〉
日本と西欧の近代社会にはズレがあり相対化しやすいため、西欧社会の分析を学問として受容し納得しがちだが、それに安住する限りでは日本の近代を真に考察しえない。そのため、日本社会に根付く独自の近代性を問い直す姿勢が求められる。(110)

#大阪大学 #国語 #佐藤俊樹 #近代

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