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2020九州大学 国語 第二問 解答解説

出典は池上哲司『傍らにあること 老いと介護の倫理学』。

関連 2015東大国語/池上哲司(同出典)↓↓
https://note.com/pinkmoon721/n/nb9077f40402f

問一「この場合」とあるが、それはどういう場合か、70字以内で説明せよ。

〈GV解答例〉
チームの対戦において、贔屓チームの勝利を願って、相手チームの不利になること一切を善とし、逆に、贔屓チームの不利になること一切を悪とする場合。(70)

〈参考S台解答例〉
自分の応援するチームの勝利を願い、相手チームに不利益になることをすべてよしとし、贔屓チームの不利になることは一切が悪であると決めつける場合。(70)

〈参考 K塾解答例〉
贔屓チームの勝敗に一喜一憂し、自分の応援するチームの勝利のためには相手チームの不利益になることをすべてよしとする、熱狂的なファンの場合。(68)

〈参考 Yゼミ解答例〉
スポーツの試合で、贔屓のチームの有利や相手の不利になることはすべて肯定され、贔屓のチームの不利や相手の有利になることはすべて否定される場合。(70)

問二「基準の一定性」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(三行)

〈GV解答例〉
基準が一部の利害関係者の善悪の判断により恣意的に決定され、改変されることを認めず、公的に定められた基準を、全ての関係者に等しく、恒常的に適用すること。(75)

〈参考 S台解答例〉
自分たちは善、相手方は悪という善悪の区別に囚われず、自分たちの都合のよいように基準を改変せず、自他に共通する公平な基準を定め固定すること。(69)

〈参考 K塾解答例〉
ある一定の条件のもとで有効性を持つ基準を、自分に都合よく変えることなく、敵味方という枠組みに囚われず、両チームに共通して適用すること。(67)

〈参考 Yゼミ解答例〉
善悪の判断が、人や状況によって異なったり恣意的に変更されたりすることなく、すべての人や場合に共通する普遍的な善悪の判断基準があり、それが不変であるということ。(79)

問三「重要なのは、誰が敵かの誰ではなくて、味方でない「敵」が誰である」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(四行)

〈GV解答例〉
チームの対戦で贔屓チームに過剰に肩入れする場合には、属人的な性格に基づく区別よりも、初めに自分にとって敵か味方かの明快単純な区別があり、状況に応じて人を振り分ける二分法的な仕方が重視されるということ。(100)

〈参考 S台解答例〉
自分以外の者への位置づけは、自分にとって敵となるか味方となるかだけであり、善悪の枠が固定されているだけで、悪という枠が誰に振り分けられるかは一定せず、状況次第で味方でない者が敵となるということ。(97)

〈参考 K塾解答例〉
敵か味方かという発想において重視されるのは、特定のチームを敵とみなすことではなく、自分の属する味方チームではないすべてのチームに対して、悪という枠を状況によって割り振ることであるということ。(95)

〈参考 Yゼミ解答例〉
敵か味方かという二項対立的発想においては、普遍的な善悪の判断基準に照らして悪を為す者を敵と見なすのではなく、自分がつねに善であるという前提に基づいて、自分の味方ではない者をすべて敵と見なすことになるということ。(105)

問四「相手チーム、あるいはその応援者に対する憎悪と言ってよいほどの態度に見られるしつこさ、激しさ」とあるが、なぜそういう態度が生じるのか、理由を説明せよ。(五行)

〈GV解答例〉
状況に対して一定の距離を保ち、場面に応じた条件を考慮するよりも、状況に埋没して自己の基準を絶対化する傾向のある人間は、試合における敵・味方の区別を、本来その区別が解除されるはずの試合後の領域にまで持ち込み、そこに善悪の倫理的基準を重ねようとするから。(125)

〈参考 S台解答例〉
試合中にのみ有効な敵と味方という枠組みが、本来適用してはならない領域にまで、越境してきているからであるが、それは条件に合った基準を選択するための状況に対する一定の距離を保つことが難しく、状況の中に埋没することで判断基準を絶対化してしまうからである。(124)

〈参考 K塾解答例〉
条件に合った基準を選択するには、敵味方に分けて考える状況に対して一定の距離を保つ必要があるが、その状況の中に埋没してしまうことで基準が絶対化されてしまい、試合中にのみ有効な善悪という枠組みが試合の外においても働くから。(109)

〈参考 Yゼミ解答例〉
本来、相手チームとその応援者が敵であるのは試合中に限られるはずなのに、敵か味方かの判断基準が有効になる条件を考慮して状況を相対化することは難しいために、われわれは意識的にその条件を無視して敵か味方かの基準を絶対化し、相手チームとその応援者を、試合後も敵と見なしつづけるから。(137)

問五「勝者/敗者という対と、敵/味方という対とは、次元が異なっている」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(六行)

〈GV解答例〉
「勝者/敗者」は、試合の勝敗に即して現れ感情の起伏を付随するが、定義上、それは試合の場に限り、相手への悪感情も伴わない。一方、「敵/味方」は、試合中に現れる「われわれ」のもたらす魅惑的な充実を試合後も維持しようと励む味方と、それを阻む敵の区分だが、それは試合を超えて絶対化し全生活を覆うことすらある。(150)

〈参考 S台解答例〉
前者は、試合の結果に左右される一時的で相対的な区別であるが、後者は、自分とそのチームの一体化の幻想を真実として受け入れ、その実現に向けて全力を挙げる者が味方であり、それを阻む者が敵であるため、敵か味方かという枠組みはその都度試合を超えて全生活を覆うこともあり、その区別の基準は絶対化されるという違い。(150)

〈参考 K塾解答例〉
勝者か敗者かという枠組みは、試合開始から終了までの時間あるいはその前後を含んだ時間にのみ適用され、有効範囲が有限の枠組みであるが、敵か味方かという枠組みは、その都度の試合を超えて、全生活をも覆うことすらあり、有効範囲が無限の枠組みである、という点でまったく違ったものであるということ。(142)

〈参考 Yゼミ解答例〉
勝者か敗者かは試合の結果によって生じる枠組みであり、その日だけに限られる。これに対して敵か味方かは自分を基準にした枠組みであるが、自分に味方しない者はすべて敵になる。本来は後者もその日限りの枠組みであるが、敵か味方かの基準が絶対化されると、試合後、さらには生活のあらゆる場面においてもその枠組みが適用されるという点で、前者と異なる。(166)

問六「すでに基準を用いる者ではなく、基準に支配される者」とあるが、それはどういうことか、説明せよ。(五行)

〈GV解答例〉
敵・味方の基準が一旦絶対化されると、その基準を批判する意思や能力を欠いた者は、自らの意向に関わらず、絶対化された基準から自動的に産出される下位基準に縛られ、敵か味方かに自動的に振り分けられるので、敵とされるのを過剰に恐れて体制従属的になるということ。(125)

〈参考 S台解答例〉
敵か味方かという基準は、一旦絶対化すれば、自動的にさまざまな下位基準を産出するため、基準を批判することをしない者、できない者は、その基準を信奉することで、基準を活用する者ではなく、その下位基準によって細部にわたるまで、自らの生を支配されるということ。(125)

〈参考 K塾解答例〉
敵か味方かという基準の絶対化が生じると、基準を主体的に用いることはもはやできなくなり、絶対化した基準によって自動的にさまざまな下位基準が産出され、その下位基準によって、その絶対的基準を信奉する者の生は細部にわたるまで支配されてしまうということ。(122)

〈参考 Yゼミ解答例〉
敵か味方かという基準が絶対化すると、自動的にさまざまな下位基準を産み出し、その基準を信奉する者の生を支配するが、基準が絶対化された状況下では、批判や条件の確認は行われないため、基準を司っていたはずの者であっても、基準に服従せざるをえなくなるということ。(126)

問七「視点の自由」とあるが、具体的にはどういう自由か、説明せよ。(四行)

〈GV解答例〉
学校現場において教師と生徒が、絶対化されてきた管理する者・管理される者の基準とそれに付随する諸細則から距離を置いて批判的に捉え直し、場面に応じて条件をを考慮し、その都度適切な基準を選択するという自由。(100)

〈参考 S台解答例〉
管理する者と管理される者という基準・区別が絶対化しているときに、絶対化されてきた基準に距離を取り、基準に疑問をもち批判的な姿勢を取ることで、固定されてきた枠組みに対して自在な見方ができるという自由。(99)

〈参考 K塾解答例〉
管理する者/管理される者の基準・区別が支配している学校の生徒管理の現状に対して、そこてま絶対化されてきた基準に距離を取り、批判的に向き合うという、学校という場に関わる者たちが持つべき自由。(94)

〈参考 Yゼミ解答例〉
学校側が管理する者、生徒側が管理される者という枠組みを当然としてきた固定的な基準から距離を取り、そのなかで作られたさまざまな規則を批判的に見直すことによって、従来の枠組みに囚われない学校のあり方を模索していく自由。(107)

#九州大学 #国語 #池上哲司 #傍らにあること

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