“ヨセフを知っている一族“を探して
中学女子だった頃毎晩毎晩、勉強を終えた就寝前に読み込んだ
L. M. モンゴメリ 「赤毛のアン」シリーズ 村岡花子訳 新潮文庫
そのうちの「アンの夢の家」からの文言なのだけど。
アンの新婚時代、理想の家を見つけて移り住み、そこで出会ったジム船長という老人との交流。ジム船長はアンのことを「ヨセフを知っている〜」だと言い、アンは同じことを「同類、 キンドレッド」を探すと表現している。
これはなんとなくわかると思うけど、お互いに話が通じやすい、出会ってすぐに共感できる人ということ。
アンは子供の頃から空想好きで、つまりは「ここではないどこか」へ自由に出入りできる能力があるということだと私は解釈している。
辛いこと・嫌なことがあってもアンはユーモアを持ってやり過ごすタイプ。
だけどそもそも私がなぜにこの作品をここまで好きなのかよおく考えてみたら
「登場人物に変な人がほぼほぼいない!」ということ。
孤児だったアンが引き取られて村に来たけど差別するような人はハナからいない。ジョーシイ・パイという皮肉屋で意地悪そうな女の子はいるけどパイ家の人間はみんなそんな感じ、と村中から生暖かく見られている。
そのあたりが何故か面白いの。安心して読んでいられる。
もちろん、これは壮大なフィクション、都合の良い物語の世界だ。
実はモンゴメリは晩年、うつ病を患っていたとかいう情報も最近入ってきたので、彼女はあえて、どうしようもなく人に迷惑をかける&アンの美意識とはかけ離れたタイプの人間を登場させなかったのかもしれない。
つまりは現実でたっぷり傷ついてきたために。
ということで、私たちはどのように人生を過ごし、人と関わっていくべきなのか。
これはもう一択で、
自分なりに自分なりの「ヨセフを知っている人々」を探すしかないわけ。
結局、見つけ出せなかったという人生もあるだろう。
その可能性の方が高い。
親や子供、配偶者やパートナーやら学友やら仕事仲間やら
最初は「もしかしてヨセフ、ご存知ですか?」と期待したものの、お互いに
「違ったねー。。。」となることだってあるし。
だからといってぶつぶつと関係を切ることもない。実害がなければのハナシだけど。
ちなみに、「ヨセフを知っている一族」は、年齢・性別・国籍・立場とか一切無関係。関わるきっかけとか関わる期間も無関係。
例えば昨日、スーパーのレジで並んでいたらどこからともなく
何故か駆け寄ってきたよちよち歩きの可愛い女の子。
私の目を真っ直ぐ見て、にっこり、手を振ってくれた。
私もにっこり、手を振りかえして、もちろん、お母さんが近くにいたから、
「可愛い〜!!!」と言いながら束の間の邂逅を味わう。
これも「ヨセフを知っている一族」同士が出会ったとカウントしている。
こんなハヤリヤマイの時代でなければ、近くに寄ってお話しするのだけど
それはやめた方がいい。彼女も2メートルくらいの
ソーシャルディスタンスをわきまえている。
ということで、人生は続く。
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