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旧白洲邸武相荘訪問記

今日は雨も降りそうになく、
切羽詰まった予定もない。
そこで、かねてより訪ねたいと
思っていた場所へ。
私の住む横浜市緑区から、
小田急線鶴川駅近くの目的地まで、
ママチャリ(笑)で飛ばすこと、
およそ40分強。

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武相荘(ぶあいそう)という。
白洲次郎と妻の正子が居を構えていた
場所である。
名前の付け方が何ともしゃれている。
武州と相州を隔てる境界にほど近い
場所であることと、「不愛想」を
ひっかけたのではないかと思われる。

実際、いただいたパンフレットに、
「武蔵と相模の境にあるこの地に
因んでまた、彼独特の一捻りしたい
という気持ちから無愛想をかけて
名づけたようです」と説明があった。

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町田市の指定史跡扱いを受けており、
こんなプレートが設置されている。
武相荘の開館自体は2001年10月とある
ので、市からの指定は後追いであった
ようだ。

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門前には、大きな臼。
その上に「〒」のマークと、
「しんぶん」の文字。
配達する人がつい微笑んでしまう、
そんな様子が想像できる。

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入口にあり、もともとチケット売り場兼
ミュージアムショップとなっている建物。
残念ながらショップは現在閉館中。
チケット売り場も、敷地の奥へと入った
邸宅=ミュージアムの入口に変更されて
いる。

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そのミュージアムショップの脇から、
入口方面を望むとこんな感じ。
左側は喫煙所とカフェ。
その一角に、次郎が乗っていたのと
同じ型のクラシックカー、
1916年型ペイジSix-38 なる車が
展示されている。
味のある車で、さぞ次郎に似合ったに
違いない。

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門から敷地に入り、右手のレストランを
過ぎて、かやぶき屋根のミュージアムへ。
今は「武相荘-夏」の展示中。
季節によって中の展示を少しずつ
変えている様子だ。

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残念ながら、ミュージアム内は撮影禁止。
外見はいわゆる農家の家でありながら、
中は農家っぽさはほとんどない。
ゆかりの品々が色々並んでおり、
そこに正子の本から引用したと思しき
文がところどころで添えられていて、
とても品の良い空間が成立している。

二人とも別々に外出することが多く、
次郎はゴルフや車、スポーツ観戦に酒、
正子はお能、文学、骨董、工芸と、
趣味はかなり異なっていたが、
好みは似通っていた
のだという。
審美眼に長けた二人だけに、
家の中全体のたたずまいから、
日常づかいの道具類に至るまで、
自ずと美しく調和が保たれたのだと
感じ入った。

二人が互いに送りあった、
短い英文で綴られたラブレターも
展示されている。
以前にそのエピソードを聞いたことは
あったが、いざ実物を目にすると、
その達筆さとあいまって、
まるで映画の一場面を見せられたかの
ような心持ちだ。

また、次郎の直筆になる

葬式無用
戒名不用

の遺言書も展示されており、
かつて伊勢谷友介がNHKのドラマで
演じた次郎の姿がよみがえってくる
ようであった。

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散策路、あるいは庭と言うべきか。
竹林になっていて、ひんやりと涼を
運んでくれる。

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次郎のエピソードで最も好きなのは、
サンフランシスコ平和条約における
吉田茂のスピーチに関してである。
2日前に、アメリカ側と外務省とで
作り上げた草稿に目を通した次郎は、
その内容に激怒。

そもそも、そのスピーチは、条約を
受諾することを日本国民に説明する
趣旨
のもの。
にもかかわらず、草稿は英文で書かれ
(一応日本語訳は用意されていた)、
占領軍を過剰に持ち上げ、沖縄のこと
には全く触れないなど、義を欠くものと
次郎の目には映った。

どんな駆け引きがあって実現できたのか
よく分かっていないが、とにもかくにも
原稿を急遽差し替えさせることに成功
その差し替え分が、長大な巻物となって
いたため、アメリカ側からは
「吉田のトイレットペーパー」
だと揶揄されたそうだ。

しかし、そんな揶揄など、どうという
ことはない。
日本国が再び諸外国と対等な立場に
戻るという、歴史的な場面において、
スピーチの内容が日本人の精神的な
独立をも支える内容へと改められた
ことが何より重要
だったのだ。

マーケティングに無理矢理引き寄せる
ならば、スピーチのターゲット顧客が
日本国民であるのに、GHQやアメリカ
ばかり気にして書かれた草稿だった
ため、ターゲットに即したトーン、
内容へとメッセージを書き改めた、
ということである。

改めて、次郎の一本筋の通った生き方、
正子とのロマンスや、武相荘という
味わいのある邸宅を体感し、
実に清々しい気持ちになって、
能ヶ谷の地を後にした。


己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。