「我思う、ゆえに我あり」

のデカルトが好きです。

ソクラテスも、何も知らない、というスタンスで「問いかけ」まくり、無知を認知させて自ら探求することを啓蒙しました。「無知の知」ってやつですね。目的は違えど、本質を探究する点では両者のアプローチは似ています。

哲学的な細かいことは専門書に譲るとして、「公理を探すためにまず否定する」というデカルトのアプローチはとても素晴らしく思っており、常に忘れないようにしようと思います。

本質を探すには、否定しまくることは非常に有効だと思います。否定しまくると、本当に世の中おかしいことだらけだと気づきます。今まで当たり前にやってたことが、合理的に考えればおかしい、と。この考えを学んでから、意識するようになり、色々と問題が発見できるようになってきました。

我々は、あくまで我々のしきたりの中で生活しているので、ある意味おかしい状態(不合理な状態)でもそれが常識として生活しなければいけない側面もあります。それはルール的なものから文化的なものまで。
自分以外にだーーーーーれもいない交差点、赤信号で立止まります。周りが見通しが良く、1km先もだれもいません。なのに信号が青になるまで待たなければいけない?。ルールだから仕方ない。箸と箸でモノを渡してはいけません。なんで?そういうしきたりだから。

ルールやしきたりを破っても良いというわけではないですが、世の中、よくよく考えるとなんで?ということがあります。考えれば理解できる法律的なものもあれば、考えても「昔からやってるから」という理解が難しいことまであります。ただ、何でもかんでもそれに従っているといわゆる思考停止になり、何もアイデアが出なくなる、という危機感を感じます。だからこそこの固定概念を壊すためにダイバーシティが重要視されているわけですが(と思っています)。

ただ、「ダイバーシティー」が固定概念を壊すための手段であれば、「疑う」こともその手段になりえると思います。皆が当たり前と思っていることを、なんで?と問いかける。

先日、フロア改装のミーティングをしました。フロアを歩いて、ここはこう変えたいよねとか、べちゃくちゃ喋っていました。ゴミ捨て場に来て、私が「このゴミ捨て場の什器、めちゃ古いですよね。形もよくわからないし、さびてるし、きたな過ぎだからここもキレイにしたい」と言いました。すると上司が「うん、そうだね。だけどここは全フロア共通(の形、設備、仕様)だからね」と言いって次のエリアに行ってしまいました。

「!?」

全フロア共通だから何なんだよ、と。まさに思考停止状態。こういうシーンはしょっちゅうあるのではないでしょうか。

我々の生活、ビジネスにおいて、おかしいことはいくらでも存在します。秩序のために守らねばならない契約的なものもあれば、単に習慣になって気づかないものもあります。ただ、「疑う」という癖をつけると、意外と発見しやすくなるものです。当たり前なことこそ疑ってみると、意外な発見があるかもしれません。


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