コミッション作品#1 Mulberry

 ふと時間ができたので、車を飛ばして郊外のダムまでやってきた。
 山あいに人工的に作られた大きな貯め水と言ってしまでばその通りなのだけれど、緑の濃い中に透明度の高い水を満々と湛えた様は単純に見ごたえが有るし、ダム建設に伴って周辺も開発されたからダム周辺の道路は道幅も広めで新しいし、近くにはきれいに整備された自然公園も有るし、ダムをぐるりと囲む道路には歩道も完備されていた。何より広い駐車場と綺麗なトイレも有る。市街地から車で小一時間程度の近場なこともあり、自然に触れてちょっとした息抜きができる穴場なのだ。自分は主にダム周囲の散歩をするか、途中のコンビニでコーヒーなりジュースなりを買い求めて水辺をのんびりと眺めて過ごしている。

 さてさて、このダムには貯水池の真ん中を突っ切るように細い橋が通されている。
 車一台分がギリギリ通れるかといったような幅な上になんとバス路線に組み込まれているので車と行き合う可能性はゼロでは無いが、今日のように平日の午前中ならばバス時間も外れているし乗用車が通ることも滅多にない。渡った先の道は更に山間地へ分け入って行く物であるので、行く手にはうっそうとした山林が水辺に覆いかぶさらんばかりに立ち並ぶという、とりわけ活き活きとした光景が広がっている。幹線道路側の開けた雰囲気とは違った趣が有るものだし、橋を渡り切った後の自販機には、ここらではそこでしか見かけない缶ジュースが置いてあるので、それを購入して景色を眺めながら堪能し、再び元来た橋を渡って戻る散歩ルートは自分のとっておきなのだった。

 が、橋の中頃まで来たあたりで、これまでとは風景の様相がやや異なることに気付いた。前方やや遠く、橋を渡り切った対岸にうごめく影が見えるのだ。先客だろうか? あるいは、この先の神社に向かう登山客か……とあたりを付けるも、そもそもこの距離から目視できる時点で人間よりだいぶ大きなシルエットである事に気付いてゾッとした。この地域で熊が出たことは、知ってる限りでは無かったはず……と思い返しつつも、万が一の可能性に身構える。
 と、その時茂みから縞々の尻尾がにゅっと突き出され、ついで飴色の二本角の生えた後ろ頭が木の梢からちらりと覗いた。
 なーんだ、ムニニコッコか!

 ムニニコッコは人里の外れというか、人間の暮らす場所を取り囲むような生息域の生き物なのだが、こんな辺鄙な所に巣を作ることも有るのだなあと感心する。
 しかし、この距離から角の模様までしっかり見えたという事は、ムニニコッコの中でもなかなかに大きな方じゃなかろうか。そもそも野生動物(の、ようなもの?)だし、不用意に近づくのはどうだろう。気を悪くするだろうか。機嫌を損ねてしまった結果、頭から丸かじりされたりは避けたいし……そもそも、ムニニコッコって人を襲うのか?
 その時自分が立っていたのはダム湖の真ん中を貫く橋の、ほとんど真ん中のような場所だった。なので、行くか退くかを逡巡したままその場に佇んでいると、件のムニニコッコがこちらの存在を気取ったようで、ぬう、と首をもたげてこちらを一瞥して来たのだった。
 が、しかしすぐまた木立の中へと頭を突っ込んでしまう。一連の動作に緊張感は無かったような、少なくとも警戒はされていないのだな、と察せられたし、ムニニコッコが居る場所は橋のたもとからはやや離れていた事もあり、思い切って橋を渡り切ろうと決めた。

 橋を渡り終えてもムニニコッコは変わらず同じ場所ででゴソゴソとうごめいており、ちょうど今の自分の立ち位置からは藪から突き出したお尻がモゾモゾしているのが見える。相変わらずこちらへ関心を向けるそぶりは無かったので、一体何をしているのだろうか……と興味半分怖いもの見たさ半分にムニニコッコの肩? 越しにそっと向こう側の様子を窺ってみる。
 低い灌木や丈の高い雑草が生い茂る中にあって背の高い立ち木が数本固まって生えており、やや垂れ下がった枝と大ぶりの葉がちょうどアーチのように向こう側に見えるダム湖を切り取っている。緑の額縁に収められたような、なかなかに良い景色だったので、思わずため息をついて眺めたものの、しかしムニニコッコの方は風景に用事が有る訳では無かったことはすぐに知れた。どうやら彼もしくは彼女は額縁を成しているところの木々自体に用が有るようで、頭上から聞こえるもしゃりもしゃりという物音につられて見上げてみれば、ムニニコッコの口元はもごもごとせわしなく動いているのであった。

 はたして、木々の枝を注視してみると木の葉の間に赤や緑や濃紫をした実が鈴なりで、なるほどこれを貪るのに忙しいかったのだ。しばしそのユーモラスな様を眺めてみるうちに、そんなに美味しい木の実なのだろうか? と、好奇心がむくむくと刺激されて来た。ひとまず木の実の正体を知るべく、手近な位置に生る実に手を伸ばす。
 小さな粒粒が寄り集まって楕円形というかラグビーボールのような形を作っているこれは、確か桑の実だ。ここは確かダムが出来る前は里山であったようなので、養蚕の足しに植えた桑の木が野生化して残っていたのだろうと見当を付ける。それはそうと、桑の実だ。これは人間も食べられる木の実と聞き及んでいたので思い切って口に放り込んでみた。
 濃厚な甘酸っぱさが口中に広がり、ややあってほんの少しの青臭さが鼻に抜けて行く。なんていうか、丸ごとひっくるめて野生っぽいお味。少しだけ癖のある味わいが不思議と後を引いて、もう一個食べたいな──と思った矢先、斜め上方向から逆さの鼻面がぬうっと視界に入って来た。ムニニコッコだ!
 円らな眼がこちらをじいっと見つめて来るのだが、そのきょろりというか、きょとんというか、何にせよ感情が読み取り辛い視線に一瞬気圧される。
 が、次の瞬間、もぞりと身じろぎして身体半分ぶんほどのスペースをこちらへ譲ってくれた。
 これはつまり、御相伴にあずかっても良いよという意味だろうか…?

 そうしてしばらくの間並んで黙々と桑の実を食べていたのだが、ふと見上げたムニニコッコの口元から下あごのたてがみにかけてが紫のまだら模様に変わっていて心底驚いた。えっ攻撃相か何か? ――いや、果汁でベトベトに汚れてるだけか。けっこうな汚しっぷりであるのを見ている内に、ついついポケットからハンドタオルを取り出してしまう。しかし、その動作だけで意図が通じるはずも無く、そして首をかしげているムニニコッコの口元ははるか上の位置で、こちらからは手が届かないのであった。
 身振りで『首をこちらまで降ろしてくれないか』と伝えてみたが、こちらが首振りしたりお辞儀したりす面白い動きをまじまじと見つめてさっきまでとは反対方向に首を傾げられてしまう。徒労!
 そもそも口元を汚している事に気付いていないのでは? と思い至り、手に持ったハンカチで口をぬぐうジェスチャーを取って見せた。これは『自分がやりたいのはそういう事ですが、やらせてもらえませんか?』という意図のつもりであったのだけれど、どうやらムニニコッコは違う意味に取ったらしく、おもむろに手を伸ばすとこちらが手に持っていたタオルハンカチをぱっと奪い取って自ら口元を擦りはじめた。そうそう、その調子! やや手荒いゴシゴシをして、タオルを広げて紫色のまだらに薄っすら染まっているのを眺めているムニニコッコの目元が最初よりも少しだけ、更に見開かれてるように見えた気もしたが、見上げる角度のせいかもしれない。

 きゅっと、辺りの空気が密度を増したように感じる。ムニニコッコが背筋を伸ばし、まばたきをし、二対の翼──身体の大きさの割には小さく見える──をぷるぷると二、三度震わせる。
 飛び立とうとしているのだ、と直感的に気付いてその場から数メートルほど距離を置いたのと、ムニニコッコが地面を蹴り上げたのはほぼ同時だった。
 ダム湖の波立つ水面が光をはじいてきらめく上を、ムニニコッコが悠然と飛んで行く。旋回して山の向こうに消えて行くまでずっと眺めていて、ハンカチを渡しっぱなしだったのに気付いたのはその後の事だった。

 それから数日後、街中にて。大通りの向こう側に用事があり、陸橋を渡っていた時のこと。
 不意にサッと影がさしたので見上げてみると、ムニニコッコが今まさにこちらめがけて舞い降りて来るのであった。
 手すりにとまる姿は、先日ダムで出会った姿よりも随分と小柄だったので、あのムニニコッコとは別のムニニコッコなのがすぐに知れた。それだけに降りて来た理由がわからない。なにか意味が有るのか……それとも気まぐれに着地した場所にたまたま居合わせただけなのだろうか?

 腕組みしたまま見つめ合っているうちに、ムニニコッコが何やら小さな包みを手にしていることに気付いた。あの色合い、あの柄、なんだが見覚えが有る。この間、あのムニニコッコが持ち去ったミニタオルに似ているような……?
 すると、目線に気付いたムニニコッコ(小……という程小型でも無いのだろうが、比較対象よりは小さいので、この出来事を思い返す時は心の中でそう呼んでいる)が包みを見、こちらの顔を見、続けて双方のふんふんと匂いを検めて、ぎゅっと目をつぶった。それが『なるほど』のジェスチャー……だったのかはともかく、ムニニコッコ(小)は包みをずい、と差し出して、それを受け取ると踵を返して手すりづたいの助走からの滑空、そのままどこぞへか飛び去って行った。
 さも自分の仕事は終わったと言わんばかりの姿にしばしあっけに取られてから、手元のミニタオルに何かが包まれている感触があるのにようやく気が付いた。タオル地越しなので細かい感触はわからないが、やや硬めで、軽い。そしてあまり大きくは無い。

 包みをほどくと、そこにはカードが一枚。何やら文字がびっしりと印字されており、ひっくり返してみたらば何らかの施設と思しき写真が大写しになっている……ダムだ。つまりこれは、ダムカードだ。国土交通省と独立行政法人水資源機構が、所有するダムへの訪問者に配布している、あのダムカードである。
 そうか、例のムニニコッコが『ぼくが出会ったダムをずっと覚えていてね』という気持ちを込めて……と一瞬ほろりと来たのだが、よくよく見ると県外の知らないダムだった。なんで? っていうかどうやって手に入れたの……?
 疑問は尽きないが、問い質せる相手が居るでもなし、というか、少なくとも好意……のような物は確かに感じ取れるから、これで良いのだろうと納得した。

 我が家の玄関先に縁もゆかりも無い土地のダムカードが飾ってあるのは、つまりはそのようないきさつなのだ。

謝辞

当作品はカルメサッキ様より頂きました【オリジナルクリーチャー「ムニニコッコ」について】というリクエストに基づき執筆したものとなります。
ご依頼ありがとうございました。

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