見出し画像

ショートショート:天使の産道

 頭がフワフワする。
 ずっと穴に落ちている。
 無限の立坑を落下し始めてもうどれほどの時が経ったのか。

 時間感覚は狂い、その結果一秒と一時間の区別も曖昧になっている。思考の速度は神経パルスの速度。時計の針のどれの一目盛り分だって、十分すぎるほどに「遅い」という意味ではあんまり違いは無いのだった。

 なぜ落ちているのか。それは、落とされたから。誰に? それを思い出せない。強く背中を押された感触だけが残っている。その時、誰が背後に立っていたのだろう。
 穴の底には何が有る? それもわからない。わからないことだらけのまま、とにかく落下している最中だ。

 落ち始めて今に至るまでには充分以上の時間経過があったらしく、とうに終端速度に達した私のからだは、等速を保ったまま穴の底──もしそんなものが有ればだが──めがけて引き寄せられている。変化が無い。私の耳は己の身体が空気を切り裂くびゅうびゅう音しか届けない。私の目は暗闇の中で何の像を結ぶこともできていない。あるいは、何かが有ったとしてピントが合う前にはるか上方へと通り過ぎて行ってしまっているだけかも。

 背中が熱い。

 不意に穴の底に何が有るのか怖くなる。ただの地面であったとしても、それは恐怖の対象だ。こんな速度で、そして恐らくは相当な高高度で、落ちているのだ。だからこの恐怖は一方では滑稽だ。何が有ったとしても、底に到達した私は「それ」に叩きつけられて、死ぬ。

 背中が熱い。

 次に恐ろしくなったのは、底なんて無いのでは? という疑念だ。私はこのまま永遠に落下し続けるのでは無いか。そんな疑念に襲われて、それは私の事を芯から狂乱せしめる想像だった。こんな、何の変化も無い状況下で、手も足も出ない状況に永久に留め置かれるだなんてぞっとしない。それならば穴の底に墜落死する方が何倍もマシに思えた。

 背中が酷く熱い。

 私は、それからも穴の底が有る事に恐怖することと、穴の底が無い事に恐怖することとを順番に繰り返していた。つまるところ、私にはこうして思い悩むほか、何も許されていないのだ。

 ──本当に?
 状況を俯瞰した私が、それに思い至ると、私の肩甲骨のあたりの灼熱感はいや増して、何かが、肉と皮膚を裂いて飛び出した。

 以上が、私が翼を持つに至った経緯の一切である。

-----

初出:筆者Twitterアカウントにて公開(2020/10)
一部改行のみ調整

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?