ピエール中野を苦しめた、ある病との戦いについて(日比谷音楽祭トークイベントレポート)
このインタビューは、2024年6月9日に行われた日比谷音楽祭のトークショー、「音楽、病、人生~ピエール中野の向き合い方~」を記事化したものです。タイトルのとおり、内容としてはこれまでのピエール中野さんの半生を『病との戦い』から振り返った内容になります。
インタビュアーおよび執筆は、マーケティング領域で多くの実績を持つ編集者・澤山モッツァレラさんです。
<澤山モッツァレラさんプロフィール>
SNSプランナー・コピーライター・編集者。編集者として、頻繁にヤフートップを飾るほど“バズる”記事を手掛ける。その経験を生かし、メディアコンサルタントとしても数々の人気サイトを手掛ける。現在は自身のTwitterでのバズを生かし、ソーシャルメディア運用のプランナーや企業のコピーライターとしても活躍。
僕は「埼玉のミュージシャンの集合体」
ピエール中野:本日は皆さんよろしくお願いします! 凛として時雨のピエール中野です。
司会進行を勤める澤山さんについて紹介しますと、SNS/BtoBマーケティングの領域でマーケター/編集者を務めている人です。わかりやすく言うとPerfumeヲタつながりです。僕が2007年にPerfumeの番組に出てからの付き合いで、もう17年目ぐらいですね。
澤山:よろしくお願いします。そうなんです、みなさんと同じくいちピエール中野ファンです(笑)。今回は「ファンの特等席」みたいな形で、対談相手を務めさせていただきます。中野さんとはPerfumeつながりで親しくさせていただいてます。ずいぶん対象との距離が違うとはいえ(笑)。
ピエール中野:インタビュー記事もいくつかあって、「ピエール中野 澤山モッツァレラ」で検索するといろいろ出てきます。澤山さんは、RinaSawayamaのお兄さんでもあって。
澤山:そうなんですよ、気がついたら世界的な売れっ子になっていて。中野さんと出会った当時はもちろんミュージシャンじゃなかったんで、あれよあれよと。謙遜でも何でもなく、彼女の成功に何一つ関わっていないですが「本当にすごい人だな、誇らしい存在だな」と思っています。
僕の話はこれぐらいで大丈夫です(笑)、時間も限られていますので早速中野さんのお話を伺えたら。今日はシリアスなタイトルですね、「音楽、病、人生~ピエール中野の向き合い方~」。
ピエール中野:そうですね。普段こういう話をする機会はないですから。普段のトークイベントは割とフランクなんですが、今回は真面目に話そうと思います。
澤山:「音楽」「病」「人生」なので、まずは順を追って「音楽」から伺いたいと思います。ミュージシャンを目指そうと思ったきっかけはどこにあったんでしょうか?
ピエール中野:まず僕が1980年生まれ、いわゆる「松坂世代」でして。松坂大輔さんが甲子園でものすごいピッチングをしていて、「何者かにならないといけない」みたいな思いが強かったんです。
それで小学校からスポーツをやっていたんですけど、ケガをしてしまって。やっぱり、ケガをすると周りに置いていかれちゃうんですね。そんな時に、自宅でX JAPANのライブビデオを見たり、同級生が楽器を始めたりして、音楽に興味を持ち始めました。
音楽ってスポーツや格闘技と違って勝ち負けがハッキリしない、あいまいな評価が発生しますよね。芸術的な要素も含めて、そこに自分の居場所があるかもしれない、「何者かになれるかもしれない」と思ったんです。
澤山:ボーカルやギターではなく、ドラムを選んだ理由はありますか?
ピエール中野:最初はギタリストになろうと思ったんですよ。でも、周りにギタリストがめちゃくちゃ多くて競争率が高かったし、中学生の時にはラウドネスやイングヴェイ・マルムスティーンの速弾きをする人が現れて「絶対無理!」って思ったんです。
一方、ドラム人口はかなり少なかったんですよね。ドラムとしてバンドに誘われたこともあって、それが最初のきっかけでした。
澤山:なるほど、周りにバンドをやる人が多かったんですね。
ピエール中野:そうですね。同級生のお兄さんがバンドをやっていて、地域で有名だったんですよ。視聴覚室みたいな小さなスペースでライブをやっていて、高校生なのにギターソロとかドラムソロもあって。
ツーバスで、ギターは轟音。ドラマーなんて、ドラムスティックって先がチップになっているんですけど、両方とも握る側を使って高速なのに和太鼓のような音を出していて。「やばすぎる!」ってなりましたね、YOSHIKIさんを軸にして、いろんなメタルドラマーを組み合わせたような奏者で。
演奏が終わると一瞬静まり返って、それから「ワーッ!」って歓声が上がる。高校生の文化祭でそういう経験をしたのは大きかったです。それこそ今の凛として時雨みたいな感じのバンドで、「自分もそんな空気を作れる人間になりたい」と思いました。しばらくそのバンドにあこがれて追っかけてました、彼らがドリーム・シアターのコピーをやり始めたら自分もコピーしたり。
澤山:X JAPANのYOSHIKIさんだけでなく、身近なバンドの影響も大きかったんですね。
ピエール中野:表に出るインタビューではX JAPANの話だけする方が伝わりやすいし、もちろんウソじゃないんですけど、それ以外の要素もたくさんあったんです。
正直、このバンドの話だけで3時間くらい話せます(会場笑)。4人編成のバンドで、1人はベース。MR.BIGのビリー・シーンモデルのベースにビックリマンシールをバーっと貼っていて、ベースなのにギターソロを弾くんです。訳が分からない(笑)。で、めちゃくちゃうまい。
その他にも、ライブが始まるまでバンドをやるかコントをやるか決まらないバンドがいたり。じゃんけんで決めるんですよ、僕が見に行った時は3回ぐらい全部コントだったことがあります。
澤山:信じられない(笑)。
ピエール中野:埼玉のバンドはホントに面白かったです。僕はそういう身近な人たちの影響を思い切り受けて、たまたまメジャーシーンに乗っかった。言うなれば、埼玉のバンドマンの集合体みたいな存在なんですよ。
子どもに「やったほうが後々いいこと」をプレゼンしてます
澤山:時雨自体もそうですが、中野さんに似ているドラマーってちょっと思いつかないんですよね。多才で、ドラマーなのにフロントマン以上に目立っている。初めてお会いした2007年末くらいから、ドラマーとしては珍しくDJやコラムなど多様な活動をされていました。
ピエール中野:そうですね、ずっと続いてます。文章の仕事もDJも15年くらい続けていますね。
澤山:多くの活動に手を出すだけでなく、ちゃんと続けられる理由はどういうものですか? ドラムと同じように、憧れとなる原体験があったんでしょうか。
ピエール中野:そうですね。「かっこいいな」「めちゃくちゃ楽しい世界があるな」と思ったことは大きいですね。
DJを始めたきっかけは、ROCK IN JAPAN FESTIVALのDJブースです。当時のDJってEDMをかけるのが主流だったんですけど、その現場はミスチルなどのJ-POPやロックをかけて、爆烈に盛り上がってたんですよ。「こんなことあるんだ、すげえな」って思って。
帰り際にもう一度見たら、ハイスタとHAWAIIAN6を繋げてて。「いや、そんなのズルくね?」って(笑)。当時はまだモッシュとかダイブがあったので、そのステージが一番楽しそうに見えたんです。それで興味を持って、TSUTAYAで働いているそのフェスでDJをやっていた前田さんに「DJを教えてほしいです」ってお願いして、COUNT DOWN JAPANにつなげてもらって現在に至ります。
澤山:そうだったんですね、全然知らなかったです。
ピエール中野:こんな感じで、今日は普段話せないことを話そうと思ってます。
澤山:ありがとうございます。このテーマもずっと聞いていたいのですが(笑)、時間も限られているので進行します。ミュージシャンを目指した経験は、今の育児にも生きているそうですね。
ピエール中野:そうですね。育児は、過去の経験から「こうしとけばよかった」をひたすらやっていく感じです。
例えば、子どもは『ナッツくん』という名前でYouTubeチャンネルをやってます。学校の自由研究ではQRコードだけ提出して、読み込むとYouTubeに飛べるようにしました。1年生のときはマインクラフトのプレー実況動画(参照)、2年生のときは「歌ってみた」動画を作って提出しました(参照)。大森靖子さんの息子なんで、歌がうまいし声もいいんですよ。
「自分の能力と今の知識があったらどんな育児をするか」「どんな子どもになりたいか」って考えながらやっています。本人がやりたいことをやらせつつ、将来役立つことも一緒に考えて進めています。
澤山:とはいえ、お子さんと中野さんでやりたいことは毎回重なるわけじゃないですよね。そこはどう折り合いをつけてるんですか?
ピエール中野:「これをやっといたほうが後々いいよ」ってものは、プレゼンします(会場笑)。例えば、プールなら「泳げたほうが生存率が上がるよ、体力もつくよ、走ることにも生きるよ、脚速いほうが人気になるよ」とか。ピアノなら「歌のピッチもわかるようになってくるよ、音感身につくし早ければ早いほうがいいよ」とか、メリットを説明しています。
無理強いはしません。DTMを始めてみたけど、向いてないのでやめたいと言ってきたことがあって。そのときは「あと1ヶ月だけやってみて」って判断してもらいました。もちろん、またやりたくなったときは始めてもらいます。
澤山:丁寧な育児をされているんですね。
ピエール中野:めちゃくちゃ楽しいですよ。親として見ても、恵まれてるなって思います。自分の方が教わって成長させてもらってる感覚が大きいです。
シンプルなフレーズが、いきなり踏めなくなった
澤山:ここからは「病」について伺えたらと思います。公表されているジストニア以外にも、躁鬱や対人恐怖などとの戦いもあったそうですね。
ピエール中野:そうです。この話は、テーマに特化したイベントでしか話せないと思ってました。対人恐怖については大変でした、ドラム飲み会に行けなくなったり、写真を撮られると「攻撃されている」ように感じたこともあったり。
それを経て、ジストニアという筋肉が思うように動かなくなる病気になりました。元[Alexandros]の庄村聡泰くんとか、RADWIMPSの山口智史くんと似たような症状を抱えています。実は、患っているけど公表していないミュージシャンは相当数います。
僕も最初は公表せず、「脚を故障した」みたいな言い回しで活動を止めていました。ちょうど、ツアーをめちゃくちゃ回っている時期でした。バンドにせよ自分個人にせよ、伸びている時期っていろんなことを言われたり、いろんな人が関わってきたりして、よくわからない精神状態になったんです。
澤山:どんな状態だったんですか?
ピエール中野:キャパを超えたのか何なのか、自覚もなかったんですが。いつも通りのライブだったはずが、突然脚が動かなくなって。「鮮やかな殺人」って曲のドラムに、単純なドン・ドン・ドン・ドンというフレーズがあるんですが踏めなくなって。TKが演奏を止めて「どうしたの、大丈夫?」って言ってくれて。
澤山:え、ライブの本番中に?
ピエール中野:本番中です。それから治療に入って行ったんですが、そのツアーファイナルが凛として時雨で初めてとなる日本武道館で。治ってない状態で、ステージに立ちました。
正直、武道館の記憶はあまりないです。「MC長かったな」ぐらい(会場笑)。長く喋ったんでTBSラジオの人から「ウチでやりませんか」と言われたことぐらいしか覚えてないです。それぐらい、必死すぎて。
澤山:それから、治療法をいろいろ探されたそうですね。
ピエール中野:西洋医学、東洋医学、整体、鍼灸など、考えられる治療は全部試しました。最終的には心療内科に行って、原因になりそうなものを探しました。キャパを超えていたことと、緊張が原因だったみたいで軽い安定剤を処方してもらったら改善しました。
あと下肢静脈瘤って血管がポコっと切れている場所があったので、全身麻酔で治療したり。全身麻酔マジ最高ですよ、仮死状態みたいにオチる感覚がいいです(会場笑)。
周年ライブ当日に、まさかの再発
澤山:文字にすると壮絶なのに、ちゃんと笑いも取るところがすごいですね(笑)。
ピエール中野:この2つの治療が効いて、症状が良くなりました。レコーディングも問題なくなり、今まで叩けなかった曲も叩けるようになりました。
それでも2018年の「#5」のライブツアーの時はドラムの難易度が高くて、正直不安があったんですよ。「また症状が出たら」って。でも、ステージに立ってみたらまあ絶好調で、思いのまま演奏できました。「これは治ったな」って思ったんですよね。
でも、ついこのあいだ東京ガーデンシアターでの時雨の周年ライブ(2023年12月8日)で再発したんです。
澤山:。。。!
ピエール中野:地獄ですね。めちゃくちゃ怖いですよ、当日朝のリハで再発ですから。『鮮やかな殺人』をやろうとしたんですがカットして、脚が動かなくなる恐れのある曲は全部取りやめました。
考えたのは「ライブを中止にはできない。止まってもいいからやろう」ということ。TKにも345にも、状況は正直に伝えました。
対策としては周知してチームのみんなに知ってもらう、曲はそのまま行く、あと僕はプロドラマーなので右脚が動かなくなったときのフレーズを全部用意する。「この曲でこうなったら、こうする」「演奏は止めないで」をみんなで共有しました。
あとは、本番前にめちゃくちゃ走り込みました。
澤山:本番前に??
ピエール中野:もう動けないくらい、汗だくで疲れ果てた状態でステージに上がりました。そうすると、余計なことを考えなくなって無に近づくんですよ。
結果、ライブはうまくいきました。その後は症状は治まって、最近のライブでも問題なかったです。とはいえ、ジストニアとは今後も付き合っていくしかないと思っています。
ジストニアを公言して、かつ現時点でもライブ活動を続けているミュージシャンは珍しいと思います。今回、亀田誠治さんからオファーをいただいて「ピエールなら何でも喋るでしょ、テーマ自由だよ」って言われたので、こういう話をお願いしました。日比谷音楽祭でトークするんだったら、シリアスな話でも聞いてくださる方は多いと思って。
「ライブを中止する」選択はない
澤山:深刻な変調でありながらキャンセルを選択肢に入れていない、決行する前提で用意をしているのは凄まじいですね。病に対して屈せず、ご自身の体を動かす。並外れた精神力だと思います。
ピエール中野:そうですね、ライブを諦めることはないです。例えばVIVA LA ROCK2022(2022年4月30日、5月1日、3日、4日)の2週間前に脚をくじいて左脚が使えなくなったことがあったんですが、フレーズを組み替えて対応しました。
本当はツーバスドコドコ踏んでやりたかったんですが、できないことは諦めつつライブとして成立するように。中止という選択肢はないです。
TKも345も演奏できるし歌もできる、自分は最低限のリズムを保てればいい。極論、どれだけ借金背負ってでもいいから必ず振替公演をやる。あらゆる想定をしたうえで、そういう気持ちで臨んでいます。
澤山:身体と相談しながら、ショーとして成り立つパフォーマンスの水準を保つと。
ピエール中野:ガーデンシアターでは、フレーズを変えたりして対応しました。でも、多分皆さんは気づいてないと思います。むしろ「絶好調だった」って言われたぐらいで。
澤山:同じミュージシャンから見ても、本当にすごいことをされてきたんでしょうね。マネージャーの大木(おおぎ)さんは元ドラマーだそうですが、間近で見ていてどうでしたか?
大木:(ソデから出てきて)そうですね、ちょっと考えられないですね(笑)。自分自身が味わっているわけではないですが、間近で見ていて「すごいなこの人」の連続です。
ピエール中野:そういうの、もっと言って(会場笑)。
大木:サラッと言ってますけど、例えばももクロさんの現場は大変そうでした。バックバンドとして初めての顔合わせだったんですけど、初顔合わせのメンバーで4時間で8曲、新曲アレンジも行い、その後ももクロのメンバーが入って1回通しリハ。それでJAPAN JAMの現場に出ていました。
澤山:プロの現場すぎますね。。。!
ピエール中野:バンドやってる人だったら「何それ?」」「考えられない」って思うでしょうし、JAPAN JAMを見た人なら「それであのステージ作れるの??」って思われたと思います。
ももクロのスタッフさんに聞いたら「びっくりしますよね?」って(笑)。でも、なんかやれちゃうんですよ。リハ4時間なので固まりきらないんですけど、本番でカチッと合わせちゃう。しびれました。
失敗はしていい、どう回復するかが重要
澤山:投げ出しそうになった瞬間はなかったですか?
ピエール中野:ないですね。ある時期から、失敗からのリカバリーや回復能力に注目するようになったんです。「そういう能力が高い大人は、カッコいいな」と思って。
澤山:自分の体の状態を受け入れて、対策を考えるということですね。
ピエール中野:そう考えると、何か起きたときに「リカバリー能力を伸ばそう」ってなるので、凹んでる場合じゃなくなるというか。もちろん最初は戸惑ったんですが、自分の状態を受け入れ改善案を考え、実行する。それをひたすらやってきていると思います。
澤山:人生そのものにも適用できる姿勢ですね。
ピエール中野:そうですね。子どもにも言ってますよ、「失敗はしていい、どう戻すかが重要だよ。クセにしておくといいよ」。意識しないでやっていたことではありますが、最近になって言語化するようになりました。なんとなくやるのと、意識してやるのとでは違いますね。
澤山:確かに、長い付き合いをさせていただいてますが、クヨクヨしている姿をあまり見たことがないですね。
ピエール中野:そうですね、割とサクッと「はい、次」みたいになっています。
質問コーナー
澤山:ここで会場の方からの質問を受け付けたいと思います。どなたか中野さんにお話を聞きたい方はいらっしゃいますか?
質問者Aさん:投薬治療に関して伺いたいのですが、症状が発生してから回復されるまでの過程でどのように関わっていたのでしょうか?
ピエール中野:薬は精神安定剤として使いました。メンタルとフィジカル両方のアプローチをしてうまくいきました。ただ、依存にならないようには気をつけましたね。本番前だけ飲むようにして、普段は飲まないようにしています。常用すると、効かなくなっていく可能性もありますから。
澤山:確かに、こういった話題は言いにくいものですね。
ピエール中野:そうなんですよね。僕もこの年齢になって、ようやく公言できるようになりました。話す人が1人でも増えれば、同じ病気を抱える人も心強いと思うんです。僕がそのきっかけになれればと思って、こうやってオープンに話しています。
澤山:もう一人くらい質問を受け付けられそうですが、どなたかいらっしゃいますか?
質問者Bさん:私自身もメンタルの部分で悩んでいるのですが、言語化することについてどのように取り組んでいますか?
ピエール中野:僕の場合は、必要になったときに言語化するタイプですね。常日頃からというわけではないですね。トークイベントやインタビューなど、表に出る機会があるときに言葉にしていくことが多いですね。ドラムの演奏についてもそうかもしれません。
澤山:ありがとうございます。もう少し大丈夫でしょうか。最後にもう一人くらい質問を受け付けられそうです。
質問者Cさん:右脚が動かなくなってから凛として時雨として復活するまでの間、メンバーとの付き合い方で何か特別なことはありましたか?「これがあったから乗り越えられた」、というエピソードがあれば教えてください。
ピエール中野:凛として時雨のメンバーは、本当に優しいです。TKと345、めちゃくちゃ優しい。誰かが何か言えば、みんな「そうだよね」って同意してくれる感じです。
最初に症状が出たときも、察してくれて「一旦活動を休んだ方がいいかもしれないね」と言ってくれました。自然とリリースもツアーも組まなくなって。不調を察してくれて、回復するまで待ってくれたんです。そのおかげでいろいろトライできたし、いい方向に向かっていけました。
2回目のときも「しょうがないね。とりあえずやってみよう」みたいな雰囲気を出してくれて。もちろん、「お前のせいだ」みたいなことを言われたことは一度もありません。本当にずっと助けられてます、「バンドっていいな」って思いました。
スタジオミュージシャンだったらクビになって、別のドラマーが入る状況だったかもしれません。でもバンドは3人でしか出せないステージって確実にあるんで、お互いを支え合える。バンドっていいなあ、って思いましたね。最後はいい話でまとめちゃいましたが(会場笑)。
澤山:まとめていただいてありがとうございます。時間も過ぎてしまいましたので、このあたりで終わらせていただきます。中野さん、本日は貴重なお話をたくさん聞かせていただき、ありがとうございました。
ピエール中野:ありがとうございました。(会場拍手)
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