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中国先史時代まとめ

ムンディ先生のYouTubeで世界史の勉強中。今回はこちらの記事↓の補足として中国の先史時代についてまとめてます。

※このページには、人間の執筆とAI生成の要素が含まれています


彭頭山文化

彭頭山文化(ほうとうざんぶんか)は紀元前7500年頃~紀元前6100年頃、中国の長江中流、湖南省北西部に栄えた新石器時代の文化である。中国の新石器時代の始まりにあたり、稲の栽培が行われていたことが知られている。

彭頭山文化の代表的な遺跡は、湖南省澧県の澧陽平原から発見された彭頭山遺跡と八十壋遺跡(はちじっとういせき)である。彭頭山遺跡は1988年に発掘され、現在のところ中国の遺跡の中でも最も初期の恒常的な集落の跡となっている。

出土したイネは栽培種か野生種か意見が分かれているが、栽培種の可能性が強いとされている。また壺形の土器があることからイネを煮て食べたことを意味し、イネが当初から粒のまま煮て食べられたことを示すものと考えられている。

彭頭山文化では散播農法が行われており、中国における最古の水稲とされている。また彭頭山、八十垱、城頭山の諸遺跡からは大量の炭化米や植物の種が出土しており、城頭山遺跡では水田跡も確認されている。


裴李崗文化

裴李崗文化(はいりこうぶんか)は中国河南省新鄭県裴李崗遺跡に代表される新石器時代初期の文化で、紀元前7000年頃〜紀元前5000年頃にかけて存在した。黄河文明起源の農耕文化として注目されており、古代中国最古の土器を作った文化とされている。

円形・方形の竪穴式住居に暮らし、粟などの畑作農業やブタの飼育などを行っていた。艶出しした紅褐色の陶器や磨製石器などを特色としており、考古学者たちは平等主義であり、政治組織はほとんどなかったと信じている。

裴李崗文化に関係する最古の遺跡の1つとして、河南省漯河市舞陽県の賈湖村で発見された賈湖遺跡が挙げられる。この遺跡からは古代の笛や未解読の賈湖契刻文字などが発見されている。


後李文化

後李文化(こうりぶんか)は紀元前6500年頃〜紀元前5500年頃にかけて、中国山東省の黄河下流域を中心に存在した新石器時代の文化である。方形の竪穴式住居に住み、イヌやブタを飼っていた痕跡が見つかっている。また紅褐陶の陶器や各種石器、地下の貯蔵穴、墓穴なども多数発見されている。

後李文化は山東省の平野部からいくつか発見され、同じく山東省で見つかる北辛文化へと引き継がれていった。1965年初めに山東省の淄博市の後李で遺跡が発見されたが、1980年代に山東省済南市郊外でも発見されたため「西河文化」とも呼ばれている。


興隆窪文化

興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)は中国の内モンゴル自治区から遼寧省にかけて、紀元前6200年頃〜紀元前5400年頃に存在した新石器時代の文化である。遼河以西の地域(遼西)に成立し、狩猟・採集・漁労に加えて雑穀農耕を基盤として定住していた。中国北部に広がる興隆窪文化には2万平方メートルにも及ぶ広さの集落があり、縄文時代に当てはめるならば亀が岡文化や黒色磨研土器文化というくらいの単位である。

興隆窪文化は紅山文化に先行する遼河流域の文明(遼河文明)のひとつとされている。その後、紅山文化を含め遼河流域各地の新石器時代の「文化」をまとめて「遼河文明」と呼ばれるようになった。


磁山文化

磁山文化(じざんぶんか)は中国の黄河中流域で、紀元前6000年頃から紀元前5500年頃にかけて栄えた初期新石器文化である。河南の裴李崗文化とともに仰韶文化に先行する農耕文化で、粟や黍などの雑穀栽培を中心としていた。

磁山文化の代表的な遺構である磁山遺跡は河北省邯鄲市武安市磁山鎮磁山村の東南、洺河の北岸の台地上に位置し、面積は約14万平方メートルである。1972年に水利工事中に発見され、1976年から1978年にかけて発掘が行われた。出土文物は石器・陶器・骨器や動物の遺骨、貯蔵食糧などがあり、発見された炭化したアワからは黄河流域で世界最古のアワの栽培が行われていたことが確認されている。

磁山遺跡では円形・楕円形の竪穴式住居や、紅褐色の夾砂陶、打製石器や製粉具、石斧や石鎌などの磨製石器が出土している。


老官台文化

老官台文化(ろうかんだいぶんか)は紀元前6000年頃〜紀元前3000年頃に、中国北部(華北)の黄河中流域で発見された新石器時代の文化である。陝西省で発見された中では現在のところ最古の新石器文化である。

老官台文化の土器は泥質深灰陶、泥質紅陶、夾砂紅陶、泥質灰陶などがあり、彩陶は発見されていない。縄紋と線紋が主で、圏足碗や三足器、平底鉢などがある。


北辛文化

北辛文化(ほくしんぶんか)は紀元前5300年頃〜紀元前4100年頃に中国山東省の黄河下流域で発見された新石器時代の文化である。代表的な遺跡は山東省滕県北辛で、黄褐色の陶器を特徴としている。

北辛文化の土器は中国の北辛文化や仰韶文化(新石器時代)にインスピレーションを得た工芸技術記録映画「鋳金‐齋藤明のわざ‐」の対象作品にもなっている。この作品は異なる種類の金属をタイミングをずらして一つの鋳型に鋳込む「吹分け」という技法によって制作されており、異種の金属が融合する境界線が流動的な文様となっている。


河姆渡文化

河姆渡文化(かぼとぶんか)は中国浙江省の杭州湾南岸から舟山群島にかけての地域で、紀元前5000年頃〜紀元前4500年頃に存在した新石器時代の文化である。長江流域の母系氏族共同体で、磨製の石斧や石鑿を使って樹木を伐採し、骨製の鏃を使って野獣を狩り、稲作を中心に生活していた。

河姆渡文化は余姚県の杭州湾南岸河姆渡村にある河姆渡遺跡に因んで名付けられた。1973年にこの遺跡から数十センチの厚さに堆積した籾をはじめ、大量の遺物が出土し当時世界最古の稲作遺跡とされた。また河姆渡文化を代表する稲作文化遺跡として、2001年に発見された田螺山遺跡もある。

河姆渡遺跡からほど近い井頭山遺跡は、中国沿海部で最も年代が古い先史時代の遺跡の一つである。


大渓文化

大渓文化(だいけいぶんか)は紀元前5000年頃〜紀元前3000年頃にかけて中国の重慶市、湖北省、湖南省の三峡周辺や両湖平原で存在した新石器時代の文化である。重慶市巫山県瞿塘峡で発見された大渓遺跡に由来し、彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴である。城背渓文化から発展し、屈家嶺文化へと継承されたと考えられている。

大渓文化の代表的な遺跡には、重慶市巫山県瞿塘峡の大渓遺跡や湖南省常徳市澧県の城頭山遺跡などがある。また大渓文化の土廣墓の上に屈家嶺文化早期の正殿・前殿・脇殿の構造をもった建築物が発見されており、中国最古の祭政殿である可能性がある。


馬家浜文化

馬家浜文化(ばかほうぶんか)は紀元前5000年頃〜紀元前3800年頃、中国の浙江省嘉興市馬家浜周辺に分布していた新石器文化である。河姆渡文化を継承・発展させ、灌漑が行われ始め、コメの栽培も行われていた。

馬家浜文化の遺跡からは次のような出土品が発見されている。

  • 紅陶

  • ヒスイなどの装飾品

  • 衣服の繊維

  • ブタの飼育痕跡

  • ノロジカ

馬家浜文化の発見は、長江流域も黄河流域同様に文明の揺籃の地であったことを示している。また馬家浜文化の映飾には「糸鋸技法」が普遍的に認められている。


仰韶文化

仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)は中国の黄河中流域で、紀元前5000年から2000年頃に存在した新石器時代の農耕文化である。仰韶遺跡を基準としており、彩陶をもつ文化として知られている。

仰韶文化は中国で最も長く続いた文化とされており、中国文化の発展に重要な役割を果たしたと考えられている。仰韶族は耕作地がなくなると別の場所に移動する焼畑農業の半遊牧民文化から始まった。この文化ではアワやキビなどの雑穀が栽培された。

仰韶文化の代表的な遺跡は、中国河南省めん池県仰韶村にある仰韶遺跡である。1921年にスウェーデン人のアンダーソンによって発掘され、仰韶文化と竜山文化の遺物が混合して出土している。


紅山文化

紅山文化(こうざんぶんか)は前4000年頃から前3000年頃に、遼河流域に存在した新石器文化である。農業を主としており家畜の飼育や狩猟、採集も行われていた。

紅山文化の遺跡からは打製石器や磨製石器などの石器や、紅陶や灰陶などの土器が発見されている。土器は粗質のものが多いが、彩陶も混じり石器には農耕の存在を示す石包丁や石鍬、製粉具としての磨石、石皿、磨臼などがある。また細石器や石鏃も発見されており、農耕とともに狩猟が大きな生業の一部になっていたことを示している。

紅山文化の名は内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後(こうざんご)遺跡に由来している。1908年に考古学者の鳥居龍蔵が発見し、1954年に紅山後にちなんで紅山文化と命名された。

また紅山文化では竜などをかたどったヒスイなどの玉も発見されており、現在の中国に繋がる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。トルコ石で作られ顔が非常に恐ろしいことが特徴で、兎と女性の合体しているようなモチーフの玉もある。この時代において宗教以前にアニミズムが台頭していたことを推測させられる玉である。


大汶口文化

大汶口文化(だいぶんこうぶんか)は紀元前4100年頃から紀元前2600年頃にかけて、中国山東省を中心に存在した新石器時代後期の文化である。大汶口遺跡を標準としており、1959年に山東省泰安市岱岳区の大汶口鎮から発見された遺跡に由来している。1962年から発掘調査が開始され、1964年に大汶口文化と命名された。

大汶口文化の遺跡は黄河下流の山東省泰安市付近に集中しているが、黄海沿岸・渤海南岸から魯西平原の東部、淮河北岸の一帯にまで広がっており、隣接する安徽省・河南省・江蘇省からも少数の発見報告がある。

大汶口文化の陶器は多くが手製で灰陶が多く、紅陶がこれに次ぎ黒陶、白陶、彩陶、彩画陶も少数ながら含まれる。器形には鼎、き、かなどがあり、高圏足鏤孔坏や鏤孔豆などがこの文化の特色を示している。

また大汶口文化の墓には決った埋葬制度が認められ、新石器時代の墓としては他に例を見ないほど多くの副葬品を有し、豚頭の副葬などが顕著な特色となっている。


良渚文化

良渚文化(りょうしょぶんか)は約5300〜4300年前の新石器時代後期に長江下流域の太湖周辺で形成された文化で、長江文明の一文化である。浙江省良渚鎮遺跡から名付けられ、浙江省から江蘇省にかけて同時期の遺跡が散在していることから総称されている。

良渚文化の特徴は稲作農業と精細な玉器工芸、水田農耕の様々な石器、多彩な玉器の副葬などである。良渚遺跡からは宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房など中国最古級の都市遺跡が出土している。

良渚文化の玉器は、後に華北を中心に成立する王朝国家において儀礼の必需品として重視され、近代までその霊力が信じられていた。


馬家窯文化

馬家窯文化(ばかようぶんか)は紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて、中国の黄河最上流域である甘粛省や青海などで栄えた新石器時代晩期の文化である。日本では甘粛彩陶文化とも呼ばれる。

馬家窯文化の歴史は古く、紀元前6000年頃まで遡る。紀元前4500年頃には窯が築かれ、500年後にはロクロの使用も確認されている。

1924年にアンダーソンが馬家窯遺跡を発掘調査し、住居址と曲線文を基調とした彩文土器を発見した。この業績は今日の中国考古学の甘粛仰韶文化編年に大きく貢献している。

福岡市美術館には馬家窯文化・馬廠類型の彩陶双耳壺が所蔵されている。


屈家嶺文化

屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)は紀元前3000年頃〜紀元前2600年頃にかけて、中華人民共和国湖北省と湖南省の長江中流域に存在した新石器時代の文化である。大渓文化を継承し、黄河中流域や長江下流域にも伝播した。

屈家嶺文化は漢水中・下流と長江中流が交錯する江漢平原で発達し、湖北省の全域に広がっている。水稲耕作が主で狩猟や家畜飼養も行ったと考えられており、石製の道具は改良・進歩し生産効率が向上した。土器製作業も発展し、器種が増加し一部の土器は規格化の傾向にある。

屈家嶺文化は早期、中期、晩期の3期に区分され、中期が典型的屈家嶺文化である。炭素14法の測定によれば、典型的屈家嶺文化の実年代は前2695±195年である。

屈家嶺文化の遺跡は湖北省京山県屈家嶺村から発掘されたことからこの名称が付けられた。


龍山文化

龍山文化(ロンシャンぶんか)は中国の黄河下流域で紀元前3000年から1500年頃にかけて存在した新石器時代後期の文化である。山東省竜山鎮の城子崖遺跡から発見されたためこの名があり、黒陶を特徴とするため黒陶文化とも呼ばれる。

龍山文化は仰韶(ぎょうしょう)文化を継承し、農耕と牧畜を主とした生活を営んでいた。高温で焼いた灰陶・黒陶を中心とした陶器の技術が高く、器の薄さが均一であることからロクロが使われていたと見られている。特に卵殻陶と呼ばれるものは器を卵の殻のようになるまで(0.5 - 1mm)薄くした黒陶の陶器で、さらに磨きをかけて黒光りさせるか精細な文様を彫り込んだものである。また籃紋・縄文文様が多く見られ、三本の袋足を持つ炊器の鬲(れき)もよく出土する。


宝墩文化

宝墩文化(ほうとんぶんか)は紀元前2500年頃から紀元前1700年頃にかけて、中国の四川省成都平原で栄えた新石器時代の文化である。成都平原で発見された考古学文化としては最も古いとされている。

宝墩文化は成都平原の川西平原での農耕の発展の結果として出現した先史時代の城址群で、都市文化の出現を示すものではない。また三星堆文化との密接な関係がある。

宝墩文化の遺址は四川省成都市新津区の宝墩遺址展館で展示されている。


石家河文化

石家河文化(せっかがぶんか)は紀元前2500年頃から紀元前2000年頃にかけて、中国湖北省の長江中流域に存在した新石器時代後期の文化である。長江中流の文化をけん引し、周辺地域に影響を与えた重要な時代とされている。

石家河文化の玉器は精巧に作られており、その多くは成人の棺桶から出土していることから石家河文化の特有の原始的な宗教信仰の表れと見なされている。また数万点にのぼる石家河文化の陶製の像は、人の他に鶏、犬、羊、豚、象、猿、貘、亀など10種類以上の小動物を網羅している。


二里頭文化

二里頭文化(にりとうぶんか)は紀元前2100年頃〜紀元前1800年頃または紀元前1500年頃にかけて、中国の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期の文化である。都市や宮殿を築き、晋南豫西龍山文化や河南龍山文化を継承し、青銅鋳造の技術を持っていたと考えられている。

1959年に河南省偃師県二里頭で発見された二里頭遺跡は約2キロ四方で、中心部には2つの宮殿跡がある。第1期文化は河南竜山文化晩期に相当し、鼎、鬹(き)、盤、三足盤、豆(とう)、壺、盆などが出土している。

二里頭文化は殷初期と考えられる二里岡文化に先行しており、二里岡文化は二里頭文化に影響を受けている。二里岡文化期には二里頭文化の時期よりも青銅器の様式は均一になり洗練され、青銅器の使用が広まった。


おわりに

二里頭遺跡は実在を疑問視されてた『夏王朝』の中心地なのではないかと考えられてるらしく、まだまだロマンが止まらない。

世界史的には地中海〜西アジアがメインになるんだけど、中国を中心にした東〜中央アジアの歴史も同時進行で色々起こってたんだよね、当たり前だけど。とりあえず次はヨーロッパの先史時代をまとめようと思います。オセアニアはアフリカ以上に情報が少ないので、大航海時代までオアズケです。

―おわり―


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