見出し画像

豊かな日々ですありがとう(何か言っているようで何も言っていないような)

 栄光のゴールデンウィークである。遠出などしない。大きな予定など構えない。近所が、十分に自分を喜ばせられるくらいに充実しているのだ。「のんびり過ごしますよ」と人には話した。
そのとおりに過ごしていて、大変満足している。

 そんな三日目。とうに折り返している。
でも、休み明けの月曜日はちっとも憂鬱ではない。もちろん休みが終わることは切ない。
が、今年は仕事に対して生き生きと、のびのびと向き合えている。なんなら、月曜日からのクラスの子たち、同僚との日々がまた、休み前同様に楽しみだ。
こんな幸せなことはない。

 自分の感覚が麻痺してしまっている部分も多分にあるだろう。心が凍てついてしまっていた昨年度。その反動なのか、「こんなにもか」と思うほど心が豊かな子たち。
半分冗談で、毎日同僚に「まだ信じられない」や「いつ手のひらを反してくるのやら」など言い続けてきた4月いっぱい。「この時期まで来たのだからもう大丈夫や」と笑う同僚。そうかなぁ、と簡単にほだされない自分。いかに、傷がまだ癒えていないのかがよく分かる。皮肉なことに。
一度くしゃくしゃになった紙は、伸ばしたところで元どおりにはならないのだ。でも、その紙に固執する必要もなく、年度替わればすべてリセット・リスタートされるのがこの仕事の良いところでもあるし、怖いところでもある。

 休みの日も、良い意味で、頭の片隅ではいつも仕事のことをうっすらと考えている。
あ、これは楽しそうなアイデア、などと。なにしろ心が豊かな子たちなので、楽しく学べそうなことがあればどんどん仕掛けたくなる。とにかく恵まれている。同時に、ここまで大切に育てられてきたこと・大切に一年一年積み重ねる指導をしてきてくれたことを感じる。何の謙遜もなしに、今のところ全部、子どもたち自身・これまで携わってきた大人たちのおかげだと思う。楽しい。

 そんなことを言っても、まだ果てしなく感じる「長距離走」の最初の一か月が終わっただけである。
そしてなれてきた頃から、いろいろと難しさがたち現れてくることもまた真理。
心療内科にもまだお世話になっている手前、頑張りや実感など、「過ぎる」ことはよくないことを肝に銘じる。中庸もっともよし。

 雑感をばーっと書こうと思って開いた久々のnote。なんだか「何か言っているような何も言っていないような内容」なここまで。
でも、これも今出たものとして、ひとつの記事として残しておこうと思う。きりがいいような気がしないでもないので、ここで筆を置く。

 豊かな毎日をありがとう。表情が明るい、とよく言われます。顔が上がっていることを、不意に自覚することがよくある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?