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読書会で仏教を伝えるお坊さんのこと

先日、とある雑誌の連載記事のため、千葉県千葉市 日蓮宗 本休寺住職の岩田親靜(しんじょう)さんにZoomインタビューをしました。

岩田さんはコロナ以降オンライン読書会をなさっています。定員は少人数ながら常連メンバーの関係性は強く、参加者からは「これだけが生活のガス抜きだよ」と言われるほどに必要とされているそう。

オンラインの読書会が、なぜそのような場となっているのか?詳しく聞いてみたいと思って、さらに質問してみました。

遠藤 岩田さんにとっての読書会は、もしかして仏教を伝えることにつながっていますか?

岩田さん 仏教というものは理法(りほう)と言います。理(ことわり)の法ということなんです。何が理か?というと、人間は生老病死の中にいる、世界は諸行無常にある。これが理です。そして、人間という動物は自我意識があるが故に、常に欲望に苛まれる。諸行無常と欲望。この2つの問題に対して、仏教は理法というならば「生老病死を考えること」が常に仏教につながります。

遠藤 なぜでしょうか?

岩田さん 世界は諸行無常であり、それを受け入れられないのが人間だからです。よりよく生きたいけど、よりよく生きられない。病になりなくないけど、病になってしまう。死にたくないけど、死んでしまう。というこの事実。ギャップが常に我々の中にあります。
もし仏教が理法であるならば、キリスト教徒であろうともユダヤ教徒であろうとも、イスラム教徒であろうとも、みな死を考えることによって、今のあり方を考えることにつながります。
「お題目をとなえましょう」「お念仏をとなえましょう」ということは、中世においては、それが解放の道であったのでしょう。でも、今の時代にどうあるべきか?ということについては、自ずから考えるべきだと思うのです。誰かから渡されるものでもない。
欲望を上手にコントロールし、自らの生き方を変えていくことが、自分が生きやすくなるために大事なはずだと、僕は思っています。もし仏教が本当に理法であり、正しいのであれば、皆がそこに行き着くはずなんです。だからオンラインを用いて、生老病死を考えるワークショプやデス・カフェ、読書会をやっているんです。

遠藤 自ずから考えるきっかけとしての場づくりということですか?

岩田さん 「生老病死について考えてみましょう。」「死について考えてみましょう。」「読書を通じて他の人の感性や考え方を知りましょう。」他の人の多様性を知ることで、自分の価値観だけでだけで世の中はできていないということがよくわかります。相手の価値観を知ることは、相手と「共に生きていく」ということになるのだと思います。そこに行き着くために、僕が考えたのはこれらの方法(読書会等)なのです。
だから僕は日蓮宗の僧侶ですが「お題目をとなえましょう。」とは言わないんです。「一緒に考えましょう」なのです。それが僕にとっての仏教の布教だと思っています。

とても共感しました。僕は岩田さんのように仏教に精通していませんが、普遍的なことなので理解ができます。
例えば、読書を通じて物語にふれることで登場人物の気持ちを想像したり、我が身をお話しの中に置いてみる力が養われます。そういった心の運動が起きることにより情緒が育まれるのだと思います。情緒は生きていく上でとても大切な要素。情緒が人生を豊かにしてくれると、僕は考えています。

だから岩田さんの読書会等の場づくりへの思いを聞いて、嬉しくなりました。お坊さんが仏教を伝えるやり方も色々あっていいです。もちろんお題目やお念仏がしっくりくる方もあれば、やっぱ坐禅よという方もいらっしゃる。その多様性が日本の仏教の魅力でもあるわけです。

この「音の巡礼」で僕がイメージする巡礼の道とは、その多様性を巡る旅ともいえます。お寺の本堂で読経するのもいい。坐禅するのもいい。境内のお掃除でも、音楽会でも、読書会でも。
そして多様性を紹介するのが「音の巡礼」note。一緒に体験してみるのが先日始めた「音巡り講」サークルということなのだと、自分でも整理することができました。
「音巡り講」サークルのはじめてのオンラインの集いは「岩田親靜さんと読書会をしよう!」にしたいと思っています。


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