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惰性カレー

いずれ行こうとメモしていたカレー屋に行ってきた。

元々行くつもりにしていたお店が何故か閉まっていて、じゃあという流れ。「これは絶対に美味しいに違いない」という直感が働いたというよりは、自分はカレー好きである。職場からも程近くにある。では、いずれ押さえておくべきだろうという謎の義務感からのメモ。

店のロゴはイマドキなオシャレ感があり、店員の愛想もサービスも良い。盛り付けも今っぽい。値段は敬遠するほどではないけれど、少し高い。

食べると、まあ美味しい。
でも、次に行くかというと行くことはないだろう。

まったく不味くはない。どちらかといえば、美味しい部類に入る。そこそこは美味しい。でも、抜群ではない。損をしたとは思わないけれど、1400円は高いとは思う。でも、900円だったとしても、次に行くかといえば行かない。そして、900円で抜群に美味しいカレー屋が、このカレー屋からすぐ近くにあることも知っている。だから、値段が高いからどうとか、安いからどうとかではない。

長く生きれば生きるほど、きっと裏切られることは少なくなる。このお店が抜群に美味しいのではないかという期待感は、そもそもメモした時からなかったのだ。店の前に自転車を停めた時も、そこそこの感じだろうとは思っていたのだ。人生における決定的なインパクトを残す飲食店なんて、なかなか出会えない。にも関わらず、僕は数軒出会えているのに、そこに行かず、なんとなくな気分でこのカレー屋に行ったのだ。

コーヒー、映画、音楽、本、友達、恋愛、レッスンやセッション、セラピー。どんなことも選択の連続。年々、予測の精度は高くなっていく。この映画を観ても不毛だろうとか、流行っているけれど、自分とは合わないだろうとか。その予想は大抵、正しい。その予想に従う時の自分と、従わない時の自分。流されてしまった時の自分。

何が違うんだろう。カレーを食べた帰り、自転車を漕ぎながら、そんなことを考えた。

「私の人生の登場人物を、今は増やしたくないの」と、男に誘われて断った女性の知り合いがいる。彼女なら、僕の今日食べたカレーは食べなかったかもしれない。

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