終末にはコーヒーを ⑤

 陽介と初めて会ったのは、叔父さんの喫茶店だった。
 私は、病院から一時帰宅を許されて、母さんに教わったメイクで病人面を隠し、アルバイトとして労働に従事していた。
 病院ではコーヒーを飲むことはできなかったけど、叔父さんに豆を分けてもらって匂いを嗅いだり、色を見たりして勉強していたから、なんとかその知識で無理なく働くことができた。
 陽介がお店にやってきたのはようやく私がそこでの仕事に慣れてきたころだった。
 コーヒーのことなんてまるで知らなくて、注文を取っても「ホット」か「アイス」しか言わないのに「コーヒーを飲むために登山をしている」なんていう陽介がなんだか可愛くて、私はすぐに彼を気に入った。
 聞けば彼は大学生で、私よりすこし年下だった。
 どうやら私をもっと年上だと勘違いしていたみたいで(母さんから習ったメイクだったからかもしれない)、悪びれずに年齢を聞いてきたときは、「女性に年齢を聞くもんじゃないわよ、少年」なんて言って子ども扱いしてやった。
 彼と恋人同士になれた時は本当にうれしかった。
 自分が生きているうちに恋人なんてできるわけがないと思っていたから。
 彼の唇に、彼の肌に触れるたびに、自分がまだ生きているってことを実感できた。まだ生きていたいって、まだあなたと一緒にいたいって、本気でそう思えた。
 喫茶店の店員のくせに、ブラックコーヒーが飲めない私のために、オリジナルブレンドを作ろうって言ってくれて本当にうれしかった。旅行に行ってくるって、その間に完成させるって、今度会うときに飲ませてくれるって約束してくれて、本当にうれしかった。
 あなたと会えて、本当にうれしかった。
 約束、守れなくて本当に、ごめん。
 入院してからも、あなたのことばかり考えていた。
 治そうとして、一生懸命頑張ってみたけど、現代の医学の力では限界があるってそうお医者様に言われた。
 どうしてもあきらめきれなかった私は、いま考えてみればバカみたいな方法に頼ることにした。
 古本屋で見つけた分厚い本に記されていた、悪魔召喚の儀式。
 半信半疑で試してみて、本当に悪魔が現れた時は、半分は恐怖で、半分は喜びで私の心はいっぱいになった。

 「さぁ、望みを請うのだ人間。どんな願いでも、俺が叶えてやろう。もちろん、それ相応の対価は頂くがな」

 真っ赤な炎のような悪魔だった。瞳は爛々と燃えるように輝き、尻尾は矢印のように天を突きさし、全身の体毛は蛇のように宙を這いずりまわっていた。

 「どんな願いでも……叶えてくれるの?」

 私がそう尋ねると、悪魔は嫌らしくにやりと笑った。

 「あぁ、もちろんだとも。どんな願いも魂一つで叶えてやる。良心的だろう?」

 魂一つ。つまり、対価として私は死ぬということ。生きたい、という望みを述べれば、それは対価と打ち消しあってしまい、叶うことはない。
 私は考えて、考え抜いて、こう言った。

 「陽介の淹れてくれた、私に為のコーヒーが飲みたい。それはまだ完成していないはずだけど、出来上がるときに一緒に飲みたい。世界が終るまでに……ううん、世界が終ってからでもいい。陽介と二人で、コーヒーが飲みたい」

 私が望みを述べると、悪魔は一瞬あっけにとられたような顔をして、それから頭を抱えて、ううんとうなり始めた。

 「その願いは……いや、まぁ、確かに魂ひとつでどんな願いも叶えるとはいったが……、非常に難しいというか、定められた理を破ることになるというか……いやしかし、理を破るのが悪魔という存在でもあるし……。いやはや、どんな願いも魂一つで叶えるというのは、実は我々にとって泣き所でもあるという話か……」

 ぶつぶつと悩ましそうにつぶやく悪魔を前にして、私は答えを待ちきれずに

「どうなんですか? できるんですか? できないんですか!?」

 と問い詰めた。今思えば、私、生きている間であの時が一番強気でいられた瞬間だったかもしれない。

「いや、できる! できるんだが……魂は先払いで頂かないといけないし、その結果お前はその陽介という男と、今の姿では会えないかもしれない。今の記憶をそのまま残しているとも限らない。相手にもお前だとわかってもらえないかもしれない。それでもいいのか?」

 悪魔の念押しに応えるように、私は強くうなずいた。
 その様子を見た悪魔は仕方がない、といった様子で頭を抱え、

「やれやれ……。わざわざ悪魔を呼び出すような人間は、欲望あるいは憎しみに心を囚われていると相場が決まっていると思っていたんだがな……。本当に怖いのは、こういう人間だ。俺は思い知ったよ」

 悪魔はそう吐き捨てると、私の体に掌をかざした。
 すると私の体は突如、炎に包まれた。
 熱かったり、痛かったりすることはなかったが、自分の体と心がバラバラになるようなそんな苦しさは味わった。
 ふと視界が暗くなり、手足の感覚が失われていった。生、というものが遠のいていく中で、私は最後に悪魔の声を聴いた。

 「いまからお前は悠久の時を地獄で過ごすことになる。痛いだろう、苦しいだろう。だが、お前はその地獄を乗り越えた先で、その望みを叶えることになる。安心しろ、対価は既にいただいた。後のことをどうするかは、お前次第だ」

 それを最後に、私は意識を失った。闇がすべてを包み込んだ。

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